読売新聞読者投稿「私の日記から」~戦争編

読売新聞の九州・山口各県で掲載されている読者エッセー欄「私の日記から」では、終戦から80年の夏を前に、「戦争」をテーマに投稿を募りました。空襲、満州(現中国東北部)や朝鮮半島からの引き揚げ、銃後の生活など数多くの体験談が寄せられました。記者が投稿者を訪ね、聞き取った証言とともに紹介します。
軍属勤務 飛行場の空襲体験
(福岡県宗像市 石橋シズコさん 100歳)
かつて東洋一といわれた陸軍大刀洗飛行場(現在の福岡県筑前町、大刀洗町、朝倉市)は、1945年3月の【大刀洗空襲】で壊滅しました。私は当時、飛行機の修理やメンテナンスを行う大刀洗航空廠(しょう)に軍属として勤務し、国内の他の航空部隊との間でやり取りされる暗号電文の解読や作成に従事していました。
空襲当日は、上官の命令で近くの飛行場内にあった機体工場に落下傘の袋を受け取りに行きました。1時間ほど待つよう言われたため、いったん航空廠の事務所に戻り、自分の席に着いた途端、米軍のB29爆撃機による空襲が始まりました。
「ザー、ザー」。爆弾が落ちる時は激しい夕立がササの葉に打ち付けるような音がします。駆け込んだ防空壕(ごう)も爆弾が落ちる度に揺れました。航空廠も被害を受け、爆撃が終わった後、どこをどう歩いて事務所があった場所まで戻ったのか覚えていません。
翌朝、小郡村(現小郡市)の自宅から出勤すると、空襲の犠牲になり、家に戻ってきていない軍属の家族らが航空廠の入り口に捜しに来ていました。消息を知らないか聞かれましたが、「知りません」と答えるのが精いっぱいで、気の毒でなりませんでした。国鉄西太刀洗駅前も、負傷して担架に乗せられた兵隊でいっぱいでした。
同僚たちと「日本が負けることはない。米軍が攻めてきたら、みんなで自決しよう」と話していたので、終戦の日は負けたことが信じられず、悔しくてみんなで泣きました。当時は「お国のために死ぬ」ことが当たり前と思い込んでいました。
ロシアによるウクライナ侵略や、軍備拡張を進める中国や北朝鮮の動きを見ていると、日本が再び戦争に巻き込まれるのではないかと気がかりです。絶対に戦争は駄目です。平和な日本がいつまでも続くよう祈っています。
【大刀洗空襲】 福岡県筑前町立大刀洗平和記念館によると、大刀洗飛行場には1945年3月27日、米軍のB29爆撃機74機が飛来し、爆弾を投下。同31日には106機が近くの航空機製作所などを爆撃した。両日の空襲で600~1000人が亡くなったとされる。B29の空襲は同年3~5月に計7回行われた。
船員仲間の無念伝えたい
(北九州市 木村勲さん 95歳)
福岡県小倉市(現北九州市)の国民学校高等科2年生だった1943年、官立の唐津海員養成所(佐賀県唐津市)の試験を受け、入所しました。当時は軍が関係する学校に志願する同級生が多く、私は海への憧れから船乗りを養成する学校を選びました。
約1年間、航海術や手旗信号などの座学と訓練を経て神戸の海運会社に入社。【戦時標準船】として建造され、陸軍に徴用された小型油槽船への乗船を命じられました。14歳でした。南方から日本に石油を運ぶのが任務で、門司港を出港し、連合軍の潜水艦や飛行機に見つからないよう夜間、陸に近い浅い場所を進み、44年暮れに仏領インドシナのサイゴンに着きました。
船は45年1月12日、日本の輸送船団を襲った米軍の空襲に遭遇し、川岸の密林に座礁。爆撃を避けるため、昼間は下船して現地の村の小さな防空壕(ごう)に身を潜めていました。
その年の春のことです。敵機の爆音が近づいてきたため、仲間と壕の中で耳と目を手でふさぎ、土壁に身を寄せていました。その時、トラックが壕の横に止まり、日本軍の将校と運転手の兵士が駆け込んできました。
敵は眼下に一人でも人間を見つけると、銃撃や爆弾投下を繰り返します。トラックを見逃すわけがなく、恐怖で震えていた時、将校が兵士にトラックを遠くに動かしてくるよう指示し、「出ていかんか」とどなりました。私も心の中で出ていってくれることを神様に祈りました。兵士は悲痛な叫びを残して外に飛び出し、爆撃が続く中、トラックは走り去りました。
戦争では多くの徴用船員も犠牲になりました。生き残った者として、彼らの無念の声を伝えていきたいと思います。
【戦時標準船】 戦時下の海上輸送の増大に対応するため、統一した規格で急造された貨物船や油槽船などを指す。日本殉職船員顕彰会(東京)によると、軍に徴用されるなどして戦死した民間船員は約6万人に上り、約7200隻が失われたという。
14歳 父の遺骨引き取りに
(福岡市 宮辺政城さん 92歳)
父の七五三雄(しめお)は、三菱重工業長崎造船所に技術工として徴用されていた1943年、陸軍に召集されました。いったん大分県緒方村(現豊後大野市)に帰郷し、すぐに地元の駅から、多くの村民の万歳の声に見送られ、熊本の部隊に入隊しました。私は当時、国民学校5年生でした。
3か月後、父の私服が小包で届き、「シナヘユク アトタノム」と書かれた荷札が忍ばせてありました。驚いた母と私は急ぎ熊本へ向かいましたが、父はすでに出発した後でした。母は当時、妹を身ごもっており、新たな命の誕生を伝えたかったのだと思います。
父は家族で出かける時も学校を休むことは許さないほど教育熱心でしたが、休日にはよく魚釣りに連れて行ってくれる優しい人でした。大黒柱がいなくなり、母は5人の子どもを育てるため、日雇いの仕事や行商、裁縫など命を張って働きました。父からの連絡はないまま終戦を迎えました。
復員のニュースを聞くようになると、列車が駅に着く度に「今度こそ父が帰ってくるのでは」との期待を胸に探しに行きました。しかし、父が戻ることはありませんでした。終戦の約1年後、死亡告知書が届き、父は45年9月に中国広西省(当時)で戦病死していました。36歳でした。
過労で体調を崩した母に代わって、当時14歳だった私が遺骨を引き取りに大分市まで行きました。渡された白木の箱のあまりの軽さに「これが本当に父なのか」と疑念を抱くほどでした。
出征時はあれほど歓呼の声で送り出した同じ駅頭に、父を迎える人は一人もなく、子ども心に世の中の薄情さを恨みました。箱の中には、3センチほどの丸い骨のようなものが一つだけ入っていました。
戦争は人の命を紙切れ1枚で「召集」や「戦死」と片付けてしまいます。戦争への道は絶対に回避し、国民が二度と同じ思いをすることのないよう切望します。
「日本に帰れる」乗船、やっと安心
(山口市 河村淑子さん 91歳)
朝鮮半島南部で両親と3人の妹、弟と暮らしていた国民学校2年生の時、戦争が始まりました。学校では、なぎなたや手旗信号の訓練、高学年になると勤労奉仕で田植えの手伝いや松根油採り、運動場の畑作りと、勉強どころではありませんでした。防空頭巾を肩から掛けて登下校し、警戒警報や空襲警報が鳴ると講堂に避難しました。
官吏だった父の転勤で転校を繰り返し、現在の韓国中部・清州(チョンジュ)にいた1943年、父が召集されました。食料不足で、田んぼで捕ったイナゴを母がつくだ煮にしてくれたのが、貴重なカルシウム源でした。
6年生の夏に終戦となり、「これで空襲警報がなくなる」とほっとしたのもつかの間、引き揚げの準備が始まりました。友達と別れを惜しむ間もなく日本の住所を交換し、父が戻ってきた45年10月、家財道具は全て残して、母が布団袋で作ったリュックに衣類などを詰め、貨物列車で釜山(プサン)へ向かいました。
釜山で引き揚げ船に乗船。はぐれないよう妹たちの手を引き、超満員の甲板に腰を下ろした時、「これで日本に帰れる」と安心しました。仙崎港(山口県長門市)に着き、地元の方からおむすびとたくあんを頂きました。そのおいしかったことは今でも忘れません。
私たち家族は無事に引き揚げられましたが、とても大変な思いをされた方もたくさんいらっしゃいます。本当なら楽しいはずの子ども時代、勉強もできず、食べ物もない我慢ばかりの生活を子どもたちにはさせたくありません。戦争はもう絶対にしてはなりません。
米軍機から必死に逃げた
(山口県防府市 立野博さん 92歳)
1945年4月16日、当時、国民学校6年生だった私は、海軍の特攻基地があった鹿児島県東国分村(現霧島市)に住んでいました。家の縁側で母がサツマイモを切り、私は弟と庭でビー玉で遊んでいた時、東側の小高い丘にピカッと光る物体が見え、2機の米軍機が急降下してきました。
3人で近くの麦畑へ逃げましたが、米軍機は機銃掃射で攻撃してきます。畑のあぜ道に身を伏せ、機体が旋回している間に走りました。やっとの思いでたどり着いた川に飛び込み、橋の下に潜り込んで難を逃れ、その日のうちに山手にある母の実家に避難しました。
その後、B29が襲来し、爆弾を落としました。両親や兄、弟、祖母と一緒に、崖に横穴を掘っただけの防空壕(ごう)に身を潜めました。近所の人も含め14、15人はいたと思います。
爆弾が落ちると、爆風と衝撃で天井から土砂が落ち、入り口に目隠しで立てていたモウソウ竹がはね上がりました。「なんまいだ、なんまいだ」。目を閉じて唱える祖母。私もまねしたことを覚えています。
その時、爆音とともに大量の土砂が落ちてきて母が生き埋めになりました。父が必死で土砂をかき分け、髪をつかんで引っ張り出しました。母は無事でしたが、自分の命も危ない中、心配する余裕はなかったです。
暗い壕で9日間ほど過ごし、集落に戻ると、わが家は焼け、一面焼け野原でした。終戦後、兵舎の廃材で焼け跡に家を建て、基地に残された練習機から油を取り出して火をともしました。
空襲の時の轟音(ごうおん)や爆風は、今も忘れることができません。世界では紛争が絶えず、ニュースでけがをした子どもや担架で運ばれる人を見ると、かわいそうだと思います。戦争はろくなもんじゃない。平和であってほしいと願っています。
父は戦犯 つらいが伝える
(福岡県福智町 田口邦子さん 86歳)
大工だった父・確美(かくみ)は、私が生まれて半年ほどたった1939年に召集令状を受けました。海軍に所属し、インドネシアのセレベス島(現・スラウェシ島)に出征。戦死した方も多い中、終戦後、無事に帰国しましたが、家族に会うこともできないまま戦犯として【巣鴨プリズン】(東京)に収容されました。
私が小学校高学年くらいの頃、母と2歳上の姉の3人で一度だけ巣鴨に面会に行きました。父と会えるのを楽しみに、母は小さな体できつい土木の仕事に耐え、お金を蓄えました。
汽車で一昼夜かけて赤池町(現・福智町)から東京まで行き、巣鴨プリズンに着くと、至る所に米兵がいて、とても怖かったです。面会時間は15分。母と父は、三重に張られた金網越しに互いに顔をくっつけるようにして、泣いていました。私はそれまで父の顔を見たこともなければ声を聞いたこともなかったので、「お父さん」の一言が出ず、ただその様子を見ていました。
父は、私が中学2、3年生になった頃、戻ってきましたが、部屋に籠もる日々が続きました。そんな時、母から「お父さんに『ご飯です』と伝えてきて」と言われても恥ずかしく、やはり「お父さん」と呼ぶことができませんでした。その後、父は炭鉱会社に入り、定年まで勤めました。友人と碁を打つのを唯一の楽しみにしていました。
父は戦時中のことを話さず、私から聞くこともありませんでした。どんな罪で戦犯になったのか分かりませんが、ひどいことをしてしまったのでしょう。ただ、私が知る父は、争いごとを好まない優しい人でした。「お国のために」と、そうせざるを得ない時代だったのだろうと推察しますが、被害に遭った方にはいくら謝っても謝りきれません。
父は約40年前、77歳で亡くなりました。先の戦争を知る世代が少なくなる中、再び戦争の時代が来ることがあってはいけないと、強く思っています。父が戦犯だった事実はつらいことですが、こうして伝えることで、平和がどんなに大事かを感じてもらいたいです。
【巣鴨プリズン】 東京拘置所だった建物を進駐軍が接収し、東条英機元首相らA級戦犯やBC級戦犯らを収容した。国立国会図書館憲政資料室によると、海外で裁かれた戦犯も移送され、サンフランシスコ講和条約が発効した1952年、日本政府に管理権が移された。71年に解体され、跡地には商業施設が建設された。
空襲犠牲者 父と慰霊
(長崎県佐世保市 宮本静昭さん 90歳)
海軍の鎮守府があり、軍港都市だった佐世保には戦争末期、米軍機が度々来襲しました。私は空襲警報が出ても、実家の寺の周辺に掘られた防空壕(ごう)には入りませんでした。寺には金属供出を免れた半鐘があり、鐘を打って心を落ち着かせていたのです。
【佐世保空襲】の日は、夜中に父に起こされました。鎮守府に勤めていた父は、非常時に備えて靴を履いたまま寝ていた家族に「伏せ!」と叫び、家を飛び出しました。その時、近くの佐世保川に爆弾が落ちました。
10歳だった私は、燃える市街地を見ながら鐘を打ち続けました。焼夷(しょうい)弾を落とす米軍機への「歯がいか(悔しい)」という気持ちが強かったのでしょう。火はあっという間に市役所や公会堂をのみ込み、寺の方にも迫ってきます。命の終わりを覚悟し、家族で念仏を唱えました。
寺は無事で、焼け出された人たちが続々と集まり、本堂は300人ほどでいっぱいに。ほとんどの人が煤(すす)だらけで、けがをしている人もいました。いつもかわいがってくれた近所のおばあさんがいないことに気づき、捜しに行きました。
途中、近くの神社で目にした光景にぼう然としました。参道の左右に、ムシロやトタンをかぶせられた人々が並べられていたのです。一枚一枚めくって確認しましたが、おばあさんは見つかりませんでした。
その後、父を捜しに神社を出て民家が並ぶ筋に来た時、赤ちゃんの泣き声が。燃える家の前に赤ちゃんをおぶった母親が倒れており、頭には焼夷弾が刺さっていました。合掌することしかできず、その場を立ち去るのが忍びなかったです。
家を出た後、鎮守府にいた父は10日ほどして帰ってきましたが、やつれた姿から敗戦を予感しました。
終戦の翌年、父は様々な懺悔(ざんげ)の思いから市内各地の石塔を集め、無縁塔を境内に建てました。市を挙げて行われた法要では、武力も武器も必要ないことを意味する「兵戈(ひょうが)無用」、敵も味方もない平和な世界を築いていくとの思いを込めた「怨親(おんしん)平等」と書かれた大きな位牌(いはい)が供えられました。
佐世保空襲の日は毎年、慰霊の法要を行っていましたが、体験者が高齢となり、近年は鐘をたたいて亡くなった方々を偲(しの)んでいます。
戦後80年となり、世の中は戦争の痛みを忘れてしまっているように感じます。位牌に込められた思いを広く知ってほしいのです。
【佐世保空襲】 佐世保市や総務省によると、1945年6月28日深夜から29日未明にかけて、米軍のB29爆撃機141機が飛来。全戸数の35%にあたる約1万2000戸が焼失し、1242人が亡くなった。警戒警報なしに空襲警報が出され、約2時間で1000トン余りの焼夷弾が投下されたとみられる。
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