住宅が山の斜面に沿って立ち並ぶ坂の街・長崎。家々に見下ろされる市街地を、昔ながらの緑色とクリーム色の路面電車が行き交い、すぐ脇を車が通り抜けていく。
長崎電気軌道は1914年(大正3年)に創業し、15年(同4年)から築町―病院下(いずれも現在は移設により廃止)間の南北約3.7キロで運行を開始した。現在は、長崎市内の約11.5キロに及ぶ複数の経路で1日に816本を運行し、約3万1000人の乗客を運ぶ。
大浦天主堂やグラバー園、平和公園といった沿線の名所を結ぶ「長崎観光の足」というイメージが強いが、自家用車での移動が不便な坂の街に暮らす住民たちにとっても、欠かせない移動手段だ。
(写真:木佐貫冬星、秋月正樹)
<読売新聞 西部夕刊 2023.1.19~3.8 掲載>
街を走る「広告塔」
長崎電気軌道の運賃は、全国の路面電車の中でも割安の140円(大人)。特に、1984年から25年間はワンコインの100円(同)で、その手軽さから市民に親しまれてきた。低運賃を下支えしてきた収入源の一つが、全面に広告を施した「カラー電車」だ。
始まりは1964年。当時の社員が西日本鉄道(福岡市)の電車の車両に文字が書かれていたことにヒントを得て、車体全体をカラー塗装した車両を全国に先駆けて導入した。市街地を繰り返し往来する広告塔としての宣伝効果は高く、大きな広告収入につながったという。
現在は35両のカラー電車を運行しており、宣伝するのは銀行、不動産などの企業広告や、特産品、名菓といった商品広告など多岐にわたる。景観に配慮したデザインで、長崎の街の景色の一つになっている。
異国情緒をくぐって
長崎電気軌道が所有する長崎市川口町の商業施設「長崎西洋館」。異国情緒たっぷりの建物の中から、路面電車が姿を現す。
線路を移設した際、両隣の社有地を有効活用しようと、1990年に開業。線路をまたぐ形で施設をつくり、電車が建物内をくぐり抜ける構造に。法令上はトンネル扱いで、「西洋館トンネル」との名前もある。
最盛期は施設に年間約230万人が訪れたが、開業時からの赤字やコロナ禍で本業の電車利用客が減少したことなどにより、今年5月末での閉館が決まった。
路面電車の軌道は維持されるが、建物は「売却も含めて検討」とされた。長崎の風情を彩ってきたトンネルの行方も注目されている。
狭い道路は共用で
線路上を走る乗用車の後ろを、電車が注意しながらゆっくり追いかける。路面電車と車が同じ「道」を走るのは、九州でここだけだ。
道路交通法は、右左折や危険回避のためやむを得ない場合などを除き、車両は軌道敷(線路)内を通行してはならないと定めている。しかし、長崎電気軌道の出島―新地中華街間(約250メートル)は道路に十分な幅がないため、例外的に線路上の通行が認められている。
同社の路線には以前、車の渋滞緩和の目的で線路内を通行できる場所が他にも存在した。だが、電車の遅れを招くため、道路を拡張するなどして渋滞を解消し、「共用区間」は1か所を残すのみとなった。
交通量が少ないこの区間の共用は電車の遅延にはつながらないが、事故の危険はつきもの。同社は「電車の走行に支障がないことを確認して走ってもらいたい」とドライバー側にも注意を呼びかける。
夢に向かって加速
「戸閉めオーライ。発車いたします」。電車のドアが閉まったことを確認し、真剣なまなざしでハンドルを握るのは、神奈川県出身の新人運転士、柳沢航平さん(25)だ。
長崎電気軌道では現在、4人が運転士を目指して研修中。電車好きの柳沢さんは、旅行で訪れた長崎の魅力に取りつかれ、「この街で幼い頃の夢をかなえたい」とIターンを決意。昨年12月に免許を取得し、現在は「師匠」の山本将樹さん(42)と組んで訓練を続ける。
路面電車の運転は乗用車などの動きを見極める「危険予測」が重要となる。傍らの山本さんから注意すべき点を一つずつ教えてもらいながらも、「臨機応変さが求められるし、次々とやることがあるのが難しい」と日々奮闘中だ。
順調に進めば2月下旬頃には独り立ちできる。「長崎に貢献できる運転士になりたい」。そう意気込む表情が頼もしく見えた。
路線図にない電車
赤いランタンが彩る電停に「2 蛍茶屋」の行き先表示を掲げた電車がやってきた。長崎電気軌道の「2号系統」。1日に走るのはこの1便だけ。実は、現在の路線図には記載されていない「幻の電車」だ。
午後10時50分、北端の赤迫電停を出発し、新地中華街などの繁華街を経由して東端の蛍茶屋電停に至る経路を走る。同じく赤迫―蛍茶屋電停間を結び、約6分間隔で運行される「3号系統」よりも1.4キロほど遠回りし、同社では最長の全長8.8キロのルートとなっている。
かつては朝夕などにも運転されていたが、利用客の減少に伴って減便され、車庫のある蛍茶屋電停に向かう最終1本を残すのみとなった。「1日1本しかなく、乗客が誤って電停で待つことがないように、路線図には載せていないんです」。同社の担当者が「幻のわけ」を教えてくれた。
明治生まれの木造車
長崎電気軌道の浦上車庫(長崎市大橋町)の奥に、ひっそりと出番を待つレトロな電車がある。茶色く塗られた木造のボディーが歴史を感じさせる「168号」は、同社で最も古い現役の車両だ。
西日本鉄道(西鉄)の前身・九州電気軌道が1911年(明治44年)に導入し、59年(昭和34年)に西鉄から長崎電気軌道が譲り受けた。68年(同43年)までは第一線で活躍し、走行距離は地球約9周分に相当する36万159キロに達する。
車体前後に台車の付いた「ボギー車」と呼ばれる車両では国内最古の木造車で、米国製の大きな車輪などが特徴。運転士が立って乗務したり、車掌が合図のベルを鳴らしたりするのも昔ながらで味がある。
今では年3回の特別運行の時だけ、本線上に姿を見せる。同社は保存にとどまらず、可能な限りの「現役続行」を目指している。
ハンドルに毛糸の愛情
長崎電気軌道の運転士が加速時に操作する「制御ハンドル」(アクセル)に注目すると、取っ手にかわいらしい毛糸の帽子のようなものがかぶさっていることがある。運転士たちは「ノッチカバー」と呼んでおり、昔から使われている。
カバーの色や形には個性があり、家族が作ったり、同僚から分けてもらったりするケースがほとんどという。野口 夢斗(ゆめと)さん(22)が愛用するカラフルなカバーは、どれも編み物が得意な祖母の手作り。「運転士は堅い仕事のイメージがあるので、少しでも柔らかい印象を持ってもらえればうれしい」と笑顔を見せる。
「ハンドルを回す操作がしやすくなり、手袋が金属部分に引っかかって破れるのも防げます」。無機質な運転席のささやかな彩りには、愛情があふれていた。
原爆 学徒乗務員の無念
長崎市の爆心地公園近くにひっそりと立つ石碑には、路面電車の車輪とレールがあしらわれていた。原爆で犠牲となった長崎電気軌道の運転士や車掌、乗客らを追悼している。
戦時の長崎では造船や兵器工場への大量動員が行われ、路面電車が通勤者の足となった。ただ、男性従業員は戦地に行っており、輸送を担ったのは「交通戦士」として学徒動員された10~20歳代の若者たち。車掌には12歳の少女もいた。
原爆は従業員約110人の命を奪った。同僚たちを追悼しようと発足した「長崎電鉄八月九日の会」が長崎市や同社と協力し、戦後42年の1987年4月に「電鉄原爆殉難者追悼碑」をこの地に建立した。
追悼碑を訪れた松山市の会社員男性(47)は「電車内で亡くなった方たちを思うと胸が締めつけられる。二度と原爆が使われることがあってはならない」と語った。
石畳の道 これからも
近づく電車のヘッドライトに照らされ、しっとりと雨に濡れた石畳の凹凸が浮かび上がる。かつての外国人居住地区を中心に、石畳の道が異国情緒を醸し出す長崎。路面電車の足元も一役買っている。
長崎電気軌道は路線の大部分で、車の通行を考慮してレールと道路との段差を敷石で埋めているが、レールの定期的な保守や交換の際には、一帯の全ての石を剥がす必要がある。
同社の担当者は「アスファルト舗装だと再利用できないが、敷石は敷き直すことができる」と石畳が使われてきた理由を語る。同社では現在、レールを交換するタイミングに合わせて敷石も新しいものに取り替えているという。
長崎の路面電車らしいこの景色は、これからも受け継がれていく。
※ 年齢・肩書などは当時
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