ヤシの街路樹が並び、南国情緒が漂う那覇市の繁華街・国際通り。行き交う人々の頭上を2両編成の列車が横切る。「ゆいレール」の愛称で知られる沖縄都市モノレール。沖縄県で唯一の鉄軌道だ。
沖縄の空の玄関口にある那覇空港駅(那覇市)から、てだこ浦西駅(沖縄県浦添市)までの全19駅、17キロを片道約40分で結ぶ。
沖縄県や那覇市、地元企業などが出資し、1982年に第3セクターの沖縄都市モノレールを設立。2003年に那覇空港―首里駅(那覇市)間の12.9キロで開業し、19年にてだこ浦西駅まで延伸した。
“台風銀座”の沖縄では鉄製の設備が強い潮風にさらされて、塩害から腐食する恐れが高い。高架橋に敷いたコンクリート製の軌道をゴムタイヤで走る構造には、そんな沖縄ならではの地域事情もある。
(写真:秋月正樹)
<読売新聞 西部夕刊 2022.4.5~28 掲載>
市街地の「ビュースポット駅」
沖縄と言えば青く広がる海のイメージだ。ゆいレールも、車窓から間近に海の景色を楽しめるかと思えばさにあらず。海から離れた市街地を走る区間が長い。
美しい海を眺められる貴重な場所が、那覇市の儀保駅だ。市内で一番の高台にある首里駅(標高127メートル)から次の儀保駅(同95メートル)に列車が向かう時、車窓から遠く東シナ海を望み、水平線に夕日が沈む様子も見ることができる。
儀保駅はホームからの眺望も良く、2018年に「ビュースポット駅」に設定された。ゆいレール広報担当の赤嶺千亜紀さん(40)は「緑の広がる那覇の街並みや水平線が見えて、まるで展望台のよう。晴れた日には慶良間諸島も見えます」とアピールする。
野球の応援 熱気も運ぶ
4月12日夜、沖縄セルラースタジアム那覇(那覇市)の最寄りの 奥武山(おうのやま)公園駅は、沖縄県内初の読売巨人軍主催公式戦が目当てのプロ野球ファンで混雑した。
同駅は、巨人軍の那覇キャンプや高校野球県大会の時期などにとりわけ乗客が増える。2019年5月に公式戦が行われた際には、同駅の2日間の平均乗客数が普段の約2倍に膨れあがり、駅員の応援を出して対応にあたった。
12日の試合は、本土復帰50年と昨年の那覇市制施行100年を記念して開かれた。同駅の乗客数は2585人と普段の1.5倍に増え、ゆいレールは駅員を通常の1人から13人に増やし、3本の臨時便を運行した。
観戦に訪れた同県北中城村の専門学校生の女性(19)は、「春のキャンプは車で見に来て、渋滞に巻き込まれたけれど、今日はゆいレールだから安心」と笑顔を見せた。
ゴムタイヤで急勾配もスイスイ
林立する高架橋脚の上に敷かれた急勾配の軌道を、ゆいレールの列車が軽快に駆け上がっていく。全17キロの最大標高差は約120メートル。古島(那覇市)―首里駅(同)の区間では、1000メートル進む間に高低差50~60メートルの勾配が続く。
戦後、沖縄の交通網は道路先行で整備された。自動車の増加とともに交通渋滞が深刻化し、その緩和策として鉄軌道の整備計画が持ち上がった。
しかし、鉄軌道のためだけに用地を確保するのは簡単ではない。そこで、すでにある道路の上にモノレールを建設したところ、道路の勾配に沿って軌道も傾斜することになった。
通常の鉄道であれば、急勾配の土地では線路をカーブさせて傾斜を緩やかにしないと、鉄製の車輪が空転しかねない。そんな勾配も楽々と上ることができるのは、摩擦に強いゴムタイヤで走るモノレールだからこそだ。
3両化着々と…
ゆいレールの牧志駅(那覇市)で、ホームドアの増設工事が進められている。車両を現在の2両編成から3両編成に増やす計画に対応するためだ。
ゆいレールの2019年度の1日平均乗客数は約5万6000人。03年に開業した当時の約3万2000人の1.75倍となった。路線を延伸して沿線地域が広がり、訪日観光需要の急伸も加わって、当初の予想を上回る勢いで増加した。
新型コロナウイルスの影響で20年度は約3万人、21年度は約3万2000人に減ったが、コロナ後の利用回復やラッシュ時の混雑に対応するため、3両編成とする計画が進む。
今年度中に3両編成を2編成導入。23年度に運行を始める予定で、25年度をめどに9編成に増やす。1編成あたりの定員は165人から256人に増える。
全駅ともホームの長さは3両化に対応できるという。
「陶芸の町」の守り神
修学旅行で訪れ、牧志駅(那覇市)から、ゆいレールに乗ろうとしていた横浜市の高校3年生男子(17)が友人と記念写真を撮っていた。一緒にフレームに納まるのは守り神「シーサー」。高さ約3.4メートル、重さ約3トンの 壺屋焼(つぼややき)だ。「こんな大きなシーサーを見つけてびっくりした」と見上げる。乗降客に人気のスポットとなっている。
2011年の那覇市制90周年に合わせて設置された。陶工7人がかりで約5か月をかけて作り上げた大作で、駅近くの複合施設「さいおんスクエア」にちなみ、地元の壺屋小学校の児童たちが「さいおんうふシーサー」と命名した。「うふ」は、沖縄の方言で「大きい」を意味する。
駅に近い那覇市壺屋地区は沖縄を代表する陶芸の町だ。戦後、米軍の占領下で市中心部に住民が立ち入れなかった時も、陶工たちは壺屋での作業を認められ、それが復興の足がかりになったとされる。
軽便鉄道の遺構
ゆいレール旭橋駅(那覇市)のホームを降りると、円形の遺構が見えてくる。戦前に県営で運行されていた軽便鉄道の転車台の跡だ。
軽便鉄道は、線路幅が現在のJR在来線のそれより約30センチ狭い。旭橋駅近くにあった那覇駅から現在の与那原町などを結び、全長は約50キロとゆいレールの3倍近くに達した。しかし、1945年の沖縄戦で破壊され、運行再開することなく姿を消した。
往時を知る人も少なくなった。阿嘉宗徹さん(91)は小学3年生の時、遠足で初めて乗った。その後、戦況が激化、中学生になると与那原に軍港を作るために動員され、軽便鉄道で通った。思い出の多くは、戦争から切り離せない。
阿嘉さんは沖縄戦で父(当時43歳)と妹(同11歳)を亡くした。鉄軌道の消えた沖縄に生まれたゆいレールは、復興の象徴の一つとなった。阿嘉さんは願う。「二度と戦争が起きず、ゆいレールが平和な沖縄を走り続けてほしい」
車窓からの景色 首里城復活を待つ
2019年10月31日朝、てだこ浦西行き列車の運転台で、ゆいレール運転士の比嘉一博さん(31)は、車窓の向こうに立ち上る煙を視界の片隅にとらえた。「首里城が燃えてしまった」――。胸が押しつぶされそうになるのを奮い立たせ、加減速を操るマスターコントローラー(マスコン)を握った。
首里城(那覇市)は、1945年の沖縄戦で全焼し、92年に正殿などを復元。2000年に城跡などが世界遺産に登録された、沖縄の象徴的存在だ。しかし、19年の火災で正殿や隣接の北殿、南殿などが焼失した。
比嘉さんは那覇市に生まれ育ち、幼い頃から散歩やジョギングで首里城に通った。ゆいレールの運転士になり、儀保―首里駅間を走らせると、車内の観光客が車窓から見える首里城にカメラやスマートフォンを向ける姿を誇らしく感じた。
今、車窓からは復興の様子を遠くに望む。首里城の復活を待ち望みながら、比嘉さんは今日もマスコンを握り、ゆいレールを走らせる。
※ 年齢・肩書などは当時
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