【熊本】くま川鉄道が全線で再開へ!59歳の新人運転士と

 2020年7月の九州豪雨で被災した熊本県人吉市の第3セクター「くま川鉄道」(くま鉄)が9月20日、約6年2か月ぶりに全線で運行を再開させる。慣れ親しんだ古里の足を支えようと、被災後に入社した59歳の新人運転士が今夏、デビューした。「全線で運行する姿を見せ、地域の方々に元気を与えたい」と意気込んでいる。

《くま川鉄道》​1989年10月1日、人吉・球磨地域の自治体などが出資して運行を開始。九州豪雨で被災し、人吉温泉―湯前駅間(24.8キロ)の全線で運休。2021年11月に肥後西村―湯前駅間(18.9キロ)が再開した。人吉温泉―肥後西村駅間(5.9キロ)の復旧で、全線再開となる。

地元・人吉出身 「地域に元気を」

 「よし、異常なし」。9月11日午前、あさぎり駅(あさぎり町)の検修庫で、新人運転士・村口正徳さんは、指さし確認で車両を点検した。点検後、1人で2両編成の列車に乗り込んで、再開前の人吉温泉―肥後西村(にしのむら)駅間を含む全区間を試運転した。線路の安全を確認して、技量の習熟を図った。



 人吉市出身の村口さんは、24年4月に57歳で入社した。根っからの鉄道ファン。幼少期は友人と鉄道模型を走らせて遊んだり、人吉駅に停車する特急列車を見に行ったりして過ごした。


 中学生になると、時刻表を手に、人吉駅から北海道まで、どの列車に乗り換えて行けば最短で到着できるかなどを調べた。高校時代は、くま鉄の前身の旧国鉄湯前線を通学で利用した。のどかな田園と球磨川を望める車窓からの景色が好きだった。

 旧国鉄の運転士を目指していた。ただ、高校卒業が1987年の民営化の頃で、運転士の募集はなかったという。卒業後は大阪のホテルに就職し、夢をあきらめた。

 社会に出てから、列車での一人旅が趣味になった。必ず先頭車両に乗車し、運転席のそばを確保した。自分で運転している気持ちになれるのが好きだった。

 大阪に就職して5年後、地元に帰り、ホテルなどに勤めた。九州豪雨ではホテルも被災し、約1年間の休業を余儀なくされた。くま鉄は国登録有形文化財「球磨川第四橋梁(きょうりょう)」が流失するなど大打撃を受けた。2021年11月にくま鉄が部分運行を再開した時は、「地域のシンボルが走る日常が戻った」と喜んだ。

妻に内緒で求人に応募

 豪雨後、友人からくま鉄の求人募集を教えてもらった。既に50歳代半ばを過ぎ、2人の娘は親元を離れた。あれほど憧れた鉄道業界に「チャンスはもうない」と、妻に内緒で応募した。

 「なんとか復興の力になりたい」という思いと鉄道好きが決め手となり、車掌に採用が決まった。妻に明かすと、「なぜ言わなかったのか」と叱られたが、渋々了承してくれた。

 車掌として、列車のドアの開閉や出発の合図、乗客への切符販売を担当。会社にはJRの元運転士も在籍していて、運転操作のテクニックを教えてもらった。「こんな良い仕事はない」。大満足で仕事の愚痴を口にしなくなったことから、妻も喜んでくれたという。

「命の重み」を痛感 

 25年9月、全線運行再開を控え、会社から村口さんに運転士への打診があった。憧れた運転士になれると承諾。それから約半年、国家資格取得に向け、1日4~5時間かけて、操縦に関する法令や、列車の構造、機能などを頭にたたき込んだ。実際にくま鉄の車両を使って、運転技能も学んだ。努力が実り、26年6月に無事合格を果たした。

 業務ではホテルマンとしての経験を生かし、常に笑顔で接客するように心がけている。9月初旬から、1人で運転できるようになり、10日には、朝の通学時間帯に、約300人が乗車する列車を初めて運転した。「大勢が乗ると、走り出しが重く、ブレーキが利きにくい。訓練では分からない『命の重み』を痛感した」と振り返った。

 くま鉄の永江友二社長は「社会人として経験が豊富で、まじめで実直な性格。好きこそものの上手なれで、仕事ののみ込みも早い」と評価し、「憧れの運転士になれたのは本人の努力。長く頑張ってほしい」と見守る。

 くま鉄はようやく全線運行再開の時を迎える。村口さんは「完成した第四橋梁を走りながら、きれいな球磨川や田園風景が望める列車の風景を早く乗客に届けたい」と力を込めた。


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