【山口】もなか「せめんだる」復活! セメントの街の銘菓

 国内初の民間セメント会社が誕生した山口県山陽小野田市で長年親しまれ、セメントを詰めて出荷した木の樽(たる)をかたどったもなか「せめんだる」。コロナ禍で製造元の老舗が倒れて姿を消したが、市民の惜しむ声に押された地元商工会議所などが郷土の銘菓の復活に取り組み、4月19日から市内の食パン専門店で販売が始まった。

企業城下町・山陽小野田のお土産


4月19日に発売された新生「せめんだる」


 国内初の民間セメント会社「セメント製造会社」の誕生は1881年(明治14年)。「小野田セメント」と名を変えて発展すると、小野田の名は全国に広まり、企業城下町として開けた。合併を重ねて「太平洋セメント」となり、本社は東京に移ったが、現在も関連会社の工場が稼働する。


 中心部の「セメント町」で1925年に創業した「つねまつ菓子舗」は、52年に売り出したもなかに「せめんだる」と名付けた。小野田セメントが明治から昭和初期にかけて、セメントを詰めて出荷した木の樽を模した。サクッとした皮にぎっしり詰められた粒あんの相性は抜群で、たちまち土産物として定着した。

 「地域の歴史とストーリーが詰まっている。県庁出張時にお土産で持って行くと、何も言わなくても山陽小野田の人間だとわかってもらえた」。小野田商工会議所の堀川順生(のりお)・専務理事は市職員だった頃のエピソードを披露する。

 ところが、同菓子舗はコロナ禍で売り上げが落ち込み、2022年に倒産。すると、同商議所の会員企業などから「取引先に持って行くお土産がなくなった」と惜しむ声が相次いだ。「なくなって寂しい」という市民の声は藤田剛二市長にも公務や政治活動の中で届くようになり、「地元の愛着を実感した」という。

 こうした声を受け、商議所は23年1月にせめんだるの商標を買い取ることを決断し、復活に向けたプロジェクトをスタートさせた。

こだわりの粒あん

 ただ、市内にはもなかを作れる和菓子店がなかった。引き受けてくれたのが、地元で食パン専門店「安都佐(あずさ)」を運営する社会福祉法人「健仁会」だ。

 だが、同店責任者の越智(おち)和恵さんには和菓子作りの経験はなく、製法や機械も残っていない。菓子舗の職人たちはすでに別の職に就いており、協力を依頼することもできなかった。「何をしていいのかわからなかった」。越智さんは途方に暮れた。

 オリジナルの「売り」は、こだわりの粒あんだった。同菓子舗の専務だった恒松恵子さんによると、職人たちは北海道産小豆を一粒ずつ見極めて傷の入った小豆を取り除き、季節で味が変わらないよう、水分や砂糖の分量をきめ細かに調整していたという。



 越智さんらは粒あんの出来が勝負所と見定め、監修してくれるあんこ職人をインターネットで探した。宮崎県などを拠点に全国の和菓子店で指導する小幡寿康さんに指導を仰ぎ、直接イロハを教わった。小豆の香りと甘みの強さにこだわり、電話でも相談を重ねた。「老若男女に愛されたお菓子。必ずいいものを」。その一心で取り組んだ。


 試作しては改良を重ね、今春、ようやく納得のいくあんこが完成。樽を模した皮部分の金型は、オリジナルの金型を作った愛知県のメーカーに特注し、皮は福岡県の専門業者に金型を使って納品してもらった。

「市民の誇り」

 新生せめんだるは4月19日、「安都佐」で発売された。

 かつてオリジナルを店頭で販売していた恒松さんは、盆や正月に帰省した地元出身者たちが「古里のお土産といえば」と言いながら立ち寄ってくれた日々を思い出すという。「復活させてくれて感謝の気持ちでいっぱい。また食べられると思うと楽しみ」と話す。

 堀川専務理事は「日本の近代化を支えた小野田セメントの歴史は市民の誇り。地域の歴史を象徴しながら、新しく生まれ変わった銘菓を末永く大切にしていきたい」と話している。


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