「帆柱山」と呼ばれて・・・ 「皿倉山」の名前を巡る謎を追った

行政のミス?が発端か

 「旧八幡市が広めた可能性が高い」。八幡東区役所に勤務経験のある元北九州市職員で、NPO法人「北九州市の文化財を守る会」の理事長を務める前薗広幸さんは分析します。
 前薗さんの研究によると、17~19世紀に作成された古地図にも皿倉山と帆柱山はあり、それぞれ正しい位置に描かれているそうです。ところが、旧八幡市が発行した「市勢概要」(1936年)は名所の筆頭に帆柱山を紹介し、その特徴に皿倉山のものと思われるデータを記載しています。帆柱山の登山道がほとんど整備されていなかったことも踏まえると、行政が二つの山を取り違えて記述したと考えられます。
 旧八幡市の公報(1931年6月1日)では、産業課が「多くの人々は之を帆柱山と呼んでゐますがほんとうの帆柱山とは皿倉と一つの谷を隔てて聳峙してゐる」と指摘。当時から、旧市の組織内でも問題視されていたことをうかがわせます。
 最後の八幡市長・大坪純氏も疑念が晴れなかったようで、かつて職員から「皿倉が本当だ。しかし(一帯の山を)帆柱連山と言うのだ。だから帆柱というのが表面に出る」との説明を受けたと、1983年の対談で振り返っています。
 前薗さんは「行政が理由を付けて(誤りを)認めず、広まったのかもしれません」とみています。


前薗さん


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 急速な都市化、その後の戦争と、地域が歩んだ歴史が影響した側面もあるようです。
 旧八幡市はもともと小さな村でしたが、八幡製鉄所の建設が始まると人口が急増しました。1917年に発足した八幡市には他地域からの転入者が後を絶たず、住民の中で皿倉山の正しい名前を知っている人が少なくなったと想像されます。
 第2次世界大戦では工業地帯を守るため、国は皿倉山などの山頂に防衛用の陣地を整備しました。この際、山頂が削られて標高も変わったため、一帯で最も高い山が権現山から皿倉山に変わったという証言も伝わっています。
 こうした歴史が、山の名前を巡る混乱を助長した可能性はあります。

山への愛着は昔も今も


北九州の市街地が広がる皿倉山頂からの眺め

 北九州市だけでなく、響灘や関門海峡を一望できる皿倉山の山頂には、多くの家族連れが訪れます。2018年には「日本新三大夜景」の一つに認定され、北九州市を代表する絶景スポットとして改めて注目を集めています。
 80歳になった今も定期的に皿倉山に登るという地元の猪口三代子さんは「帆柱山」という呼び方に慣れ親しんで育ちましたが、次第に「皿倉山」と呼ぶようになったといいます。「名前はどうあれ、山への愛着は変わりません。ずっと愛される山であってほしい」と、猪口さんは笑顔で話してくれました。


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