洞海湾に眠る軍艦防波堤「涼月」 乗組員の遺族が遺骨探し

伯父の手がかりを求め、西方寺を訪れた松山さん(左)

 太平洋戦争末期の1945年4月、戦艦大和を護衛して沖縄へ出撃し、大破しながら長崎県佐世保市へ帰還した駆逐艦「涼月」の乗組員の遺族が、沈没を防ごうとして帰投中の艦内で亡くなった伯父の遺骨を探している。4月2日には、防波堤として再利用された涼月が眠る北九州市若松区を訪れ、「命をなげうって艦と戦友を守った伯父のことを伝えていきたい」と思いを語った。

命を懸け艦を守った伯父

 遺族は、さいたま市の病院職員松山達司さん(63)。伯父の國場(こくば)勇さんは、涼月の高角砲弾庫長だった。

 大和や涼月など10隻で沖縄へ向かったが、45年4月7日、鹿児島県・坊ノ岬沖の海戦で米軍の猛攻を受け、大和は沈没。涼月は艦の前方に被弾し、炎上した。海図や通信機器を失い、舵(かじ)を動かす機械も動かなくなった。前傾したまま進めば沈んでしまうため、星や島の位置を頼りに手動ポンプで舵を動かしながら、後進で佐世保を目指した。


國場勇さん(松山さん提供)


 当時の砲術長の手記によると、一昼夜かけて佐世保にたどり着いた後、砲弾庫に近い区画で3人の遺体が見つかった。扉はつっかい棒とくさび、かすがいで内側から密閉されていた。3人は、区画への浸水や延焼を食い止めることで艦の浮力を維持して沈没を防ごうとし、扉の内側で息絶えていたという。その一人が、当時27歳で砲弾庫の責任者を務めていた國場さんだった。


「尊い精神」を伝えたい 

 終戦後も遺骨は帰ってこなかった。生存者の証言では、艦内の遺体は佐世保市内で火葬され、遺骨は寺に預けられた。だが、その後に大規模な空襲に見舞われ、散逸したとみられている。

 松山さんの父紹仁さんは折に触れ、「兄さんの骨を(両親と)一緒に墓に入れてやりたい」と話していた。その言葉を気にかけていた松山さんは、紹仁さんが亡くなった2001年春、伯父の遺骨を探し始めた。元乗組員と手紙を交わしたり、國場さんのルーツがある沖縄を訪ねたりしたが、行方は分からなかった。


北九州市若松区の軍艦防波堤

 一度は諦めながら、38年間勤めた警視庁を退職したのを機に、3年前に活動を再開。21年12月に佐世保東山海軍墓地を訪れ、骨つぼの氏名を一つずつ確認した。4月1日には、松山さんを支援する市民グループ「軍艦防波堤連絡会」の会員らと、兵士らの遺骨を預かったと伝えられる佐世保市の西方寺を訪れたが、伯父につながる情報は得られなかった。


軍艦防波堤を語る会で伯父への思いを語る松山さん


 坊ノ岬沖海戦から78年――。松山さんは2日、若松区で開かれた「軍艦防波堤を語る会」に出席した。「遺骨を取り戻すことはかなり難しいが、それと同じくらい、伯父を知ってもらうことが大事だ」とし、聴衆に向かって「『沖縄のために』という特別な思いで出撃したのではないか。3人の尊い精神が日本人の心に広く、深く意識されることを願ってやまない」と静かに語りかけた。


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