焼夷弾のピカッ、真っ暗な空、焼けた臭い 八幡大空襲の体験者が初めて語るリアル

戦争体験を語る村田さち子さん

記事 INDEX

  • 長崎原爆の前日に
  • 終戦、部屋が明るくなった
  • 普段の暮らしでは聞けなかった

 太平洋戦争末期の1945年8月8日、福岡県の旧八幡市(現・北九州市)で約2500人が死傷した八幡大空襲。「私も年を取り、戦争の記憶を直接伝えていく必要があると思いました」。空襲を体験した北九州市八幡西区の村田さち子さん(87)が「慰霊の日」にあたる8月8日、同区の古書店「古本や檸檬」で開かれたトークイベントで当時の様子を初めて語った。

長崎原爆の前日に


1945年8月8日の八幡大空襲で被災した八幡市西本町(提供:北九州市)

 長崎市に原子爆弾が投下される前日の1945年8月8日午前10時頃、旧八幡市に約120機の米爆撃機B29が飛来し、焼夷(しょうい)弾を投下。北九州市によると、この空襲で約2500人が死傷し、約1万4000戸の住宅が焼失した。

 官営八幡製鉄所が立地する北九州は、それまでもたびたび空襲を受けた。1944年6月16日、B29による日本本土への初めての空襲の標的にもなった。


焼け跡の片付け作業をする八幡女学校の生徒(提供:平野塾)


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泣きながらした万歳

 「本土空襲を最初に受けたのが北九州。北九州には小倉陸軍造兵廠(しょう)があり、官営八幡製鉄所など主要な施設がありました」

 1944年6月16日。村田さんは当時11歳で、国民学校の5年生(現在の小学5年生)だった。「庭に掘った防空壕(ごう)で毛布をかぶり、サーチライトに照らされながら飛来する敵機編隊を見ました」。その初めての空襲から約2か月後、八幡は再び爆撃を受けた。「敵機が代わる代わる飛来して、日本の飛行機と空中戦になりました。一機がバラバラになって墜落して、残っている飛行機に日の丸がついていました。『敵機が落ちた』と泣きながら万歳しました」


 多いときは空襲警報が2、3日おきに鳴ったという。戦局が悪化するにつれて、暮らしにも緊張感が増していった。「食糧の配給は遅れるし、主な都市は空襲、空襲、空襲。(火災の延焼を防ぐため)道幅を広げる建物疎開で壊した住宅の片付けを手伝うなど、学校での授業はほとんどありませんでした」

 学校は児童の安否確認をしやすくするため、集団登下校になったという。登下校中に米戦闘機が近づくと、「私は木の幹にくっついて隠れ、小さな1年生は敵機が通り過ぎるまで畑のうねの間にうつぶせになって隠れました」。


 軍事施設の設営にも、国民学校の子どもたちがかり出されたという。「皿倉山の山頂に高射砲陣地があって、セメントを練る水をくむ作業に周辺の学校の女子たちが集められてバケツリレーで水を運びました。冬でみぞれが降って、つま先は濡れて。あの日の寒さは忘れられません」。辛い記憶が今も強烈に残っている。

1945年8月8日

 1945年の8月8日は朝から空襲警報が響いたという。「8時過ぎにサイレンが鳴って、それから敵機が来るまで1時間半くらいありました。毎日のように警報が鳴るから、みんな日常の生活に戻っていました。気がついたら爆撃機の編隊が焼夷弾を落としていました」。村田さんが住んでいた地域は空爆を免れたが、米爆撃機が市街地へ碁盤目状に焼夷弾を投下する様子を目撃した。「焼夷弾はピカッピカッと光りながら、ゆっくりと落下していきました」


村田さんが描いた空襲の被害地図

 「空襲のとき、私の役目はゴザを抱えて横穴防空壕に走って場所取りすることでした。親戚に小さい子がいたから、豆電球の下に場所取りをしました。その日は見たこともない人が防空壕に駆け込んできて、空襲から逃げてきた人でした。それでいつもと違う、『焼けた』という感じがありました」

 「空襲がやんで家に帰ると、昼間でしたが空が真っ暗になっていました。灰や焼けた新聞やらが降ってきて、それを見ながら私たちは立ち尽くしました」

 被災を免れた村田さんの自宅には、親戚や被災した人たちが次々と訪れた。「父は町内会長だったので多くの人がやってきて、母は炊いたカボチャを訪問客に出していました」。八幡製鉄所で働いていた父親はまだ戻っていなかった。「母が『知らせがないのは生きてる証拠』とぶつぶつ言いながら料理していたのを覚えています」。父は空襲から3日たってようやく帰ってきたという。


八幡大空襲で被災した八幡市西本町(提供:北九州市)


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終戦、部屋が明るくなった

 八幡大空襲で忘れられない記憶が、臭いだという。夜になると火葬場で遺体を焼く煙がのぼり、その強烈な臭いが自宅にたちこめた。火葬は数日続いた。「行方不明になった家族の人数分の遺骨をもらっている人がいました。切った竹に遺骨を入れ、カボチャの葉で栓をしていました。八幡市としては何とか遺骨だけでもという心配りですよね」。ただ、個人を特定できない遺体が多く、その人が持ち帰った遺骨も亡くなった本人のものではなかった。


被災した現在の八幡東区帆柱地区(提供:平野塾)

 大空襲の1週間後、終戦を迎えた。8月15日、ラジオから流れる玉音放送を聞いたが、内容は分からなかった。「戦争が終わったんじゃないか」と母は言ったが、戦争が終わるとはどういうことなのかを理解するのに数日かかったという。「2年生の頃からずっと戦争だったので、戦争のない経験がない。『ふーん』といった感じでした。ただ、部屋の照明を覆う幕をのけて、部屋中が明るくなったのを覚えています」

 戦争の記憶を後世に伝えたいと、初めて体験を語った村田さん。「戦後が100年でも、200年でも続いてほしい」と言って、話を締めくくった。

普段の暮らしでは聞けなかった


聞き役を務めた村田さんの長女・もも子さん(右)

 今回のトークイベントは、「古本や檸檬」が八幡大空襲の記憶を伝え残そうと企画した。檸檬は村田さんが夫の浩一郎さん(故人)と開業した書店で、現在は娘夫婦が引き継いでいる。

 イベントを企画した長女・もも子さんは「普段の暮らしの中では聞けなかったこともあって、初めて聞く内容の話もありました。戦争の記憶が失われつつある中、戦争を体験した人の話を聞けることはますます減っていくので、こういう機会をつくることができてよかった」と語った。

北九州市に来春、平和資料館が開館へ

 北九州市は2022年春、「平和資料館」を同市小倉北区に開館する。米国立公文書館での調査で見つかった八幡大空襲の被害状況を撮影した写真資料も展示される。

 市の計画では、360度シアターで八幡大空襲の追体験ができるほか、空襲翌日に原爆を搭載したB29爆撃機「ボックスカー」が北九州の上空に飛来し、その後に長崎へ向かったことも解説するという。


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