今こそ疫病退散 町内を守る「祓い獅子」 絶やさない~後編・紅葉八幡宮獅子まつり
記事 INDEX
- 「享保の大飢饉」起源説
- 「おしし」を転勤族のふるさとに
- コロナ禍で見直される獅子の力
「博多祇園山笠」と同じように、疫病退散を願って始まった福岡市登録無形民俗文化財「祓(はら)い獅子」行事。後編は、毎年8月の第1土曜に「獅子まつり」を行っている紅葉八幡宮(福岡市早良区)の平山晶生(あきお)宮司と平山道宜(みちよし)禰宜に、行事を守り継ぐ神社の思いを聞きました。
【前編・姪浜の獅子まわし】はこちら
「享保の大飢饉」起源説
祓い獅子行事が福岡市に定着したのは近世から近代とされますが、起源は不明。享保の大飢饉(1732年)がきっかけと考える説もあります。
「享保の大飢饉では、福岡藩の農民10万人以上が餓死し、悪病も流行しました。藩主・黒田継高公が享保18年(1733年)春に、人々が安穏に暮らせるよう箱崎八幡宮(筥崎宮)、紅葉八幡宮、宰府天満宮(太宰府天満宮)に祈祷させた記録が『新訂 黒田家譜』に残っています」(平山禰宜)
「当宮が立つ皿山(現在の紅葉山)地区は、昔から高取焼の窯元が多く、味楽窯には享保年間に人々が疫病に負けず元気が出るよう願って箱庭を飾った話も伝わっています」(平山宮司)
獅子頭を用いたのかは不明ですが、享保の大飢饉に見舞われた頃に、福岡藩では何らかの「厄祓い」が行われていたと考えられます。
「おしし」を転勤族のふるさとに
平山宮司は少年時代を振り返ります。「昔は行事を『おしし』と呼びました。昭和40年代の初め、小学生だった私は獅子頭が怖かったけれども触ってみたくてね。頭にのせる主役は青年たちでしたから、子どもは近づくことすらできませんでした。取り外した獅子頭の耳だけ手にのせてもらって、うれしかったですねえ」
平成生まれの平山禰宜は「行列で水をかけてもらうのが大好きでした」。大人も子どももびしょ濡れになって町を練り歩く"エンタメ感"が夏の楽しみだったそうです。
時代とともに地域のつきあいが薄れ、行事に関わる青年や子どもが減り、「目の前で行事がなくなるのを見てきました」と話す平山宮司。かつては氏子町内6地区で行われましたが、現在は3地区(祖原、中西、紅葉高取)のみとなりました。
「転勤族が多い地域だからこそ、皆さんがどこへ引っ越されても『心のふるさとは、おししの町だった』と思い返してほしい。おししには郷土を愛する気持ちを育む力があります」と平山宮司は笑顔を見せました。
近年は新築マンションが増え、住人の顔や商店街の看板も入れ替わり、行事の担い手は少なくなるばかりです。今年のまつりは大人だけで、8月7日(土)に開催する予定。猛暑と新型コロナウイルスによって子ども神輿(みこし)行列が3年続けて中止となる状況に、2人は焦りも感じているようです。
「町の人が行事へ関わるきっかけをつくるのも神社の仕事。『お店へお祓いに行っていいですか?』と電話したり、『追い水どんどんかけてくださいね』とお願いに行ったり。顔を見て声を交わすコミュニケーションが、行事をつなぐ力になります」と平山禰宜は前を向きます。
コロナ禍で見直される獅子の力
実は、記者が祓い獅子に興味を持ったのは6年前の夏。紅葉八幡宮の鳥居近くにある旧家の前を通りかかった際、こちらに「睨(にら)み」をきかせる獅子頭と目が合ってギョッとしたのです。
獅子頭が氏子の家々を一晩ずつ巡る「お泊まり」。「いいな、うちにも来てほしいな…と、隣から隣へ伝わった習わしではないかと思います」と平山禰宜は言います。
この習わしによって、魔を祓う獅子の力を敬う気持ちが町に広がり、家と家のつながりも深まったのでしょう。「お泊まり」が続く地域は珍しいそうで、今も氏子町内2軒の家で受け継がれています。
昨夏から紅葉八幡宮の本殿や神輿殿に「除災獅子頭」が並び、参拝者の目を引いています。獅子頭に睨まれることで疫病や災いが祓われるという言い伝えから、「仕掛け人」の平山禰宜による発案で、「コロナ禍の今こそやろう」と行事以外では出さない獅子頭をまつりました。
「人々から畏(おそ)れ敬われることで獅子は強くなり、私たちを一層守ってくれます。この無限に続くループの真ん中に、行事や神社があるんですよ」
早くコロナ禍から解放されたいと、誰もが願う夏。「努力をしないで、今日と同じ明日を迎えられると思ってはいけません。よりよい自分であろうと、つねに心を整えなければね」という平山宮司の言葉が胸に響きます。
目に見えない獅子の力で不安を祓い、「ありがたい」と手を合わせたい。みんな元気で乗り切れますように。