天守閣のようなたたずまい 岩石山の裾野に立つ添田町美術館

まるで城のような外観の添田町美術館
記事 INDEX
- 難攻不落の岩石城
- 戦乱の記憶を今に
- 町民寄贈の甲冑も
美術館でありながら、城の天守閣のような外観――。福岡県添田町の岩石山(がんじゃくさん、454メートル)の裾野に立つ添田町美術館は、一風変わった建物だ。町の中心部から離れた場所に、なぜ天守閣を模した美術館があるのだろう。かつて山頂付近に存在した岩石城との関わりを求めて、ちょっと謎めいた山里の美術館を訪ねた。
難攻不落の岩石城
岩石城は平清盛の命により、1158年(保元3年)に築かれたとされる山城だ。中世・戦国期を経て、1615年(元和元年)の一国一城令で壊されるまで、時の権力者が城の拡張・整備を繰り返したとの記録が残る。
およそ450年の長い間にわたり山城が存在し続けた背景には、修験道で栄えていた英彦山が近くにあることや、花こう岩が行く手を阻む複雑な地形があるようだ。
難攻不落で、かつて「豊前一の堅城」と呼ばれた城もあった岩石山。見応えのある巨石や奇岩が点在する一方で、「遺構のオンパレード」とも言われるほど廃城の名残をとどめる山でもあり、県内外から多くのハイカーが訪れている。
戦乱の記憶を今に
登山道には巨石が立ちはだかり、鎖を取り付けた急な坂も随所に見られる。この起伏の激しい山道を、城に関わる人たちは毎日のように登っていたのだろうか――。往時に思いをはせつつ足を運ぶ。木々の間から見える山里の風景に、力をもらいながら歩を進めていると、ごつごつした巨石が集まる頂上付近にたどり着いた。
温度計が氷点下を指していた展望台からは、雪化粧した英彦山が見えた。晴れた日には周防灘まで見渡せるという。山頂から少し下りたところにある本丸跡には、コケに覆われた石垣跡があった。
町によると天守台付近からは、かつてこの地を治めた細川氏ゆかりの家紋が入った瓦などが、今でも見つかることがあるそうだ。落ち葉が一面に敷き詰められた本丸そばでは、馬場跡も確認されている。豊臣秀吉の岩石城攻めでは、ここから牛馬300頭が放たれたという記録も残っているようだ。
町民寄贈の甲冑も
群雄割拠の歴史に翻弄(ほんろう)された城の記憶から、天守閣をモチーフにした美術館は1991年に完成した。バブルの余熱が残っていた時代、町によると当時の町長の意向もあり、あえて町の中心部から離れた場所に約7億5000万円を投じて造られた。モデルにした城は「とくにない」そうだ。
添田町美術館は入館無料。1階には、秀吉による岩石城攻略時に立てこもった秋月氏家臣の鎧(よろい)や刀、絵画など約20点が展示されている。施設の「顔」となっているのは、町民から寄贈を受けた室町時代の甲冑(かっちゅう)だ。専門家が"お宝"を鑑定するテレビ番組では、1200万円の値が付いたという。
"市民美術館"という性格から、住民が寄贈した書画のほか、鎧の奥には版画も展示されている。現在は無人の美術館だが、オープン時の館長が版画好きだったことも影響しているそうだ。
正直なところ、建物の外観と館内の展示との間に存在する微妙な"ギャップ"を感じないではなかった。訪れたのは1月半ば。入館者が書き込む訪問記録を見た限り、年が明けてから訪れたのは数人にとどまっていた。
美術館の3階にある展望室へ向かう。エレベーターの扉が開くと、息をのむ光景が広がっていた。
雲の合間からの日差しが、筑豊の山々の上に光の柱を描いている。どこか神々しさを感じながら、目の前のパノラマに見入った。
美術館は、桜の名所として知られる添田公園にある。園内の施設「そえだジョイ」に立ち寄って、展望浴室で体を休めた。町並みを眺めながらつかった湯舟は、芯まで冷えた体に心地よく、心身ともに温まって家路についた。