「戦死した仲間の分も」 前福岡県知事の父・小川治夫さんが肌身離さなかった手帳
記事 INDEX
- 元海軍士官の終わりなき慰霊
- 戦友の名前や命日を書き記す
- 「100歳まで」長男との約束
太平洋戦争中、数々の海戦や作戦に最前線で従事した元海軍士官の小川治夫さん(福岡市早良区)が3月31日、老衰のため99歳で亡くなった。戦後は西日本鉄道の役員を務めたほか、海軍関係の慰霊、顕彰に取り組む公益財団法人「水交会」(本部・東京)の福岡支部初代会長を務めるなどし、戦死した海軍兵学校同期や戦友の慰霊、遺族との交流に尽くした。
元海軍士官の終わりなき慰霊
小川さんは奈良県生まれ、東京育ち。海軍兵学校70期で、卒業の翌月に開戦。戦艦「扶桑」、重巡洋艦「鈴谷」、駆逐艦「天津風」で機銃の指揮官や砲術長を務め、第二、三次ソロモン海戦、南太平洋海戦のほか、インド洋通商破壊作戦や船団の護衛などに従事し、激しい戦闘も経験した。23歳の誕生日に対馬警備隊分隊長で終戦を迎えた。
父親を頼って福岡へ復員し、西鉄では電車の車掌やバス部門勤務を経て、取締役やグループ会社社長を歴任。福岡中央ロータリークラブの創立や日中間の経済交流にも尽力した。
「海軍三校」と呼ばれた兵学校、機関学校、経理学校の福岡地区合同クラス会を1964年に設立し、2011年まで半世紀近く活動。07年には元海軍士官や海上自衛隊OBらで水交会福岡支部を発足した。
戦友の名前や命日を書き記す
小川さんの胸ポケットには常に、縦10センチ、横6センチの手帳が収められていた。卒業生の66%に上る兵学校同期の戦死者や戦友の氏名、亡くなった場所を黒字、戦死した日付を赤字で書き込み、肌身離さなかった。
日本経済大の久野潤准教授(41)は2013~19年に小川さんへインタビューを重ね、昨年秋、雑誌「歴史群像」に「南太平洋海戦を戦った海軍士官 小川治夫」が掲載された。「小川さんの手帳は、戦死した仲間と共に生き、仲間が生きるはずだった時間の分まで日本の戦後復興に尽くすという覚悟の象徴だった」と話す。
海自OBで支部会長を引き継いだ津田慶一さん(88)、叔父と小川さんが海軍で同期だった縁で支部の活動に携わり副会長を務める成松明孝さん(59)は、総会で「同期の桜」を歌う度に涙する姿が印象に残っているという。
「100歳まで」長男との約束
小川さんの長男は、昨年11月に死去した前福岡県知事の洋さん。父のことを「自分の根っこ」と語るほど影響を受け、敬っていた。毎晩寝る前に兵学校の教え「五省」を唱え、その最初の文言である「至誠」が座右の銘だった。
長女の脇坂みどりさん(70)と次男の泰さん(66)は入院中の父がショックを受けないよう、洋さんの死を隠し通した。
洋さんは知事時代、敬老の日に合わせて100歳の県民を訪ね、記念品を贈っていた。実家に立ち寄った時に「絶対に届けに来るから、100歳まで頑張って」と父に声をかけ、2人でうれしそうに笑ったという。
「100歳まであと少しだったのに、2人ともいなくなるなんて……。今頃、あちらで顔を合わせているかしら」と脇坂さん。入院中も父の枕元にあった手帳を手のひらで包み、「戦友への慰霊を欠かさず、生かされたことや人との縁への感謝を生涯忘れなかった父でした」と静かに語った。