まちおこし請負人 木藤亮太さんインタビュー【日南編】
記事 INDEX
- 地元がある人がうらやましかった
- 若者のチャレンジをみんなで応援
- 商店街でカープが優勝パレード!
全国公募で選ばれたテナントミックスサポートマネージャーとして、「ネコも歩かない」とまで言われた宮崎県日南市の油津商店街の再生に取り組み、多くの店舗や企業を誘致した木藤亮太さん。現在は、福岡県那珂川市を拠点に活動しています。“まちおこし請負人”とも呼ばれる木藤さんに、これまでの経験や目指す方向を聞きました。
木藤亮太(きとう・りょうた)さん
1975年生まれ。九州芸術工科大学(現・九州大学芸術工学部)大学院芸術工学研究院修了。コンサルティング会社に勤務後、2013年に日南市のテナントミックスサポートマネージャーに就任。福岡県那珂川市の事業間連携専門官などを経て、株式会社「ホーホゥ」代表として、那珂川市を拠点に地域活性化に向けた活動に携わっている。
地元がある人がうらやましかった
――地域に関わる仕事に興味を持ったきっかけは?
父の転勤で小さい頃から埼玉、千葉、福島など各地を転々としました。那珂川には祖父母の家があり、大学生の頃に住み始めましたが「地元」とは言えません。出身地を聞かれてもしっかり答えられず、地元がある人がうらやましいと思っていました。
でも周囲の人たちを見ると、地元を大事にしていない。みんなが生まれ育った故郷を大事にすれば、日本はもっとよくなると感じました。その思いが、この仕事をしている根本にあります。
――地域活性化の仕事を始めたのはいつからですか。
まちづくりのコンサルティング会社に入ってからです。バブルが崩壊し、経済が低迷している時期なので、新しいものを作るよりも今あるものを残すという仕事に携わることが多く、その中で地域活性化に関わっていくようになりました。
――日南市のテナントミックスサポートマネージャーに応募した契機は?
30代半ばに、佐賀県唐津市の「蕨野(わらびの)の棚田」に携わった時のことです。美しい風景を残したいと地元の人たちが熱心に活動していました。でも実は、棚田の風景を守っていくというのは、形をどうこうするのではなく、お米をいかに上手に作って高く売るか――ということなのです。
お米を作らないと田んぼはだめになります。農業が丁寧に続けられることによって、風景が守られていくという現場に遭遇し、その場所での「生活・くらし」が大切なのだと気づかされました。
一方で、そうした仕事で地域に出向くのは、日帰りや1、2泊がほとんどです。現場で過ごす時間もわずかなのに、「地域の課題を解決しましょう」なんて偉そうなことを言っている自分にも気づきました。仕事のスタイルを変えていかないと真の地域活性化とはいえないと考え始め、30代後半で会社を辞めることにしました。その時に、当時の社長が紹介してくれたのが日南市の公募でした。
若者のチャレンジをみんなで応援
日南市は2013年、市中心部にある油津商店街の活性化を担うテナントミックスサポートマネージャーを公募した。示されたのは、4年の契約期間で20店舗を新規に誘致するという数値目標。委託料が月額90万円という”厚遇”も話題となり、300人以上が応募した。
――日南市では「4年間で20店舗」という目標が設定されましたが。
いまさら商店街にお金をかける意味はないという声もありました。そういう人たちを巻き込みたくて、商店街ではなく日南市全体の課題を考えてみました。やはり若者が圧倒的に減っている。高校を卒業したら市外に出て行って、地元に帰ってこない。それを食い止めないと日南の未来はないと思いました。
そこで、商店街そのものをどうにかするのではなく、地域の若い人たちに元気を与えてチャレンジを生み、それを空き店舗の中で展開していくことを考えました。挑戦する若者をみんなが応援する、そんな商店街にできるのではないかと思ったのです。
――初めにカフェを作りましたね。
カフェは食べ物や飲み物を消費するのではなく、時間を消費する場所です。そこに人が集まって会話が交わされ、いろんなアイデアが生まれる――。まちなかにカフェや喫茶店があるのは重要なことです。「油津応援団」という会社をつくり、古い喫茶店の跡に「ABURATSU COFFEE」をオープンしました。
商店街でカープが優勝パレード!
――日南市はプロ野球・広島カープのキャンプ地。その需要も取り込みました。
カープの春季キャンプは半世紀以上にわたり、商店街そばの球場で行われていました。約1か月で5万人以上が見学にやって来ます。でも地元の人たちは「毎年のことで珍しくない」「野球を見に来ているだけ」「食事はコンビニの弁当ですませる」と決めつけているところがありました。
でも、5万人が地元に100円ずつ落としてくれれば、大きな金額になります。何かやろうと、商店街を紹介するマップを用意して球場で配りました。サインボールなどを保管している人もいたので、それらを展示する「カープ館」も作りました。少しずつ人が流れ始め、カープのマークが入ったパンケーキや赤いプリンができたり、商店街でオリジナルTシャツを作ったり、そういうことが自然とやれるようになりました。
2016年には、カープが25年ぶりにセリーグ優勝を果たしました。優勝決定戦は商店街の通りにテレビを出してみんなで観戦しました。翌年のキャンプでは、カープの選手たちが商店街で優勝パレードもしてくれました。
木藤さんがテナントミックスサポートマネージャーを務めた4年間で、IT企業や飲食店、保育施設など商店街の新規出店数は29を数えた。かつて行われていた「土曜夜市」の復活などイベントも多数開催。歩行者通行量も着任前の2.5倍以上になった。
――4年間で「20店舗」を達成し、商店街のアイドルも生まれました。
次の世代にどうバトンタッチできるか、がとても大事だと思っていました。そういう狙いもあって若者にフォーカスし、結果的に多くの若い人が起業してくれました。アイドルをしていた子も当時は小学生でしたが、今は高校生になっています。
子どもたちはこの間、商店街のことに関わったり、大人たちが頑張っている姿を見たりして、自分たちのまちを「いいな」と感じ始めてくれています。まいてきた種がちょっとずつ芽生えだしたかなと思います。
――マネージャーとして4年の任期を迎えることになりました。
最初のプレゼンテーションの時点で「4年たったら去ります」と明確に言っていたので、那珂川に帰ることにしました。毎月90万円かかる私が抜けても、油津応援団が回転することで、一定の支援ができる形を整えることができました。ただ責任はあると思っているので、今も取締役の職にとどまり、定期的に油津を訪ねています。
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