昭和のテレビやラジオがよみがえる 福岡市南区の骨董店を訪ねた

”現役復帰”させたブラウン管テレビを前に笑顔の大場さん

記事 INDEX

  • 「どんな家電でも!」
  • 原点は”ラジオ少年”
  • じっくり至福の時間

 街頭でみんなが夢中になったテレビが家庭に普及し始めた昭和30年代――。そんな古き良き時代のテレビや昭和初期のラジオを修理し、“現役“に復帰させる骨董(こっとう)店が福岡市南区にあるという。「骨董&リサイクルショップ Katsu(活)」の店主、大場敬志さん(70)を訪ねた。

「どんな家電でも!」

 2003年に開店した店内には、ブラウン管テレビのほか蓄音機や2層式洗濯機などの家電、ホーロー看板や郵便ポスト、懐かしい雑貨などがひしめき合い、昭和の香りが漂っている。家電はどれも大場さんが修理し、使えるようになった現役だ。


ホーロー看板や炊飯器など懐かしい品々が所狭しと並ぶ


 戦後の庶民の生活に触れることができる”博物館”のような空間。店に入ってすぐ目に留まるテレビの電源を入れてもらった。20秒ほど待っていると真空管が温まり、四隅が丸みを帯びた画面にうっすらと光がともり始めた。


スイッチを回して電源をONに


 あぁ、こんな感じだった――。半世紀近く前の幼少期、実家の狭い居間でモノクロ映像のアニメを食い入るように見ていた記憶がかすかによみがえった。


修復が進む昭和30年代のラジオ


 ブラウン管や真空管などの部品は、当時使われていたものを再利用する。大場さんが手がけた特殊なコンバーターや、地上デジタルチューナーをつけることで、現在のテレビ番組やDVD映像なども見ることができるという。


経験を頼りに故障箇所を探り、部品を入れ替える


 テレビの修理には1か月ほどかかる。聞けば、想像以上に効率が悪く、たいへんな苦労があることが分かった。


 古いテレビの内部はほこりで真っ黒。まず、ほこりをエアで取り除いて水洗いした後、1週間ほど天日で干す。ブラウン管テレビには400~500点ほどの部品があり、地道に一つ一つ点検し、その半数近くを交換するそうだ。


机の周囲には、半導体やコンデンサーなど修理に必要な部品が


 役目を終えて30~40年。すでに製造されていないため、20年ほどかけてストックしてきた1万点を超える部品の中から、真空管など必要なものを選び出し、「まだ使えるだろうか?」と電気を流して確認していく。ついうっかり感電してしまうこともあるが、「もう慣れっこで、なんでもないですよ」と笑う。


「部品と対話しながら修理しています」


 コロナ禍の前までは、修理の依頼があれば受けて、不具合を直して送り返していたという。「大場さんなら、どんな家電でもよみがえらせてくれる」と評判が広がり、全国からの依頼が順番待ちの状態だった。しかし、修理に時間を割かれて店での接客に手が回らず、各地に赴いて骨董品を買い付けることも困難になった。


集合住宅の1階にある店舗


 そこで現在は、店で売るために仕入れた品物に限って修理するようになった。とにかく“現役”にこだわり、販売した商品の調子が悪くなって店に持ち込まれても、部品代を受け取る程度でまた使えるように直している。



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原点は”ラジオ少年”

 店番や自宅で過ごす時間の多くをテレビなどの修理に充てるという大場さん。「修理だけでは食べていけない」そうだが、採算を度外視して家電再生に情熱を傾けるのはなぜなのだろうか――。掘り下げて話を聞いてみると、その原点は岩手県釜石市で過ごした”ラジオ少年時代”にあることがうかがえた。


ラジオの真空管を入れ替える


 小学生の頃、休みには部屋に一日中こもり、ラジオを分解しては組み立てる作業を繰り返した。不足する部品は、地元の廃品回収業者を訪ねて探し歩いたという。


 「持っていけ」。業者に迎え入れられた大場少年は”宝の山”から真空管やソケットなどを見つけ出し、大事に持ち帰っていたそうだ。「いい時代でしたね」と振り返る大場さん。「結局、作るプロセスが楽しかったのだと思います。音が鳴ったらそれでおしまい。次は何しようか、という状態でした」


図面を書いて修復に臨む


 中学に入ると、さらに家電の世界にのめり込んでいく。夏休みや冬休みには、近くの電器店でチラシ配りや配達の手伝いを買って出た。ただ一つ、「テレビをいじらせてほしい」と条件をつけて。最初は構造がまったく理解できなかったが、店主に教えてもらい、ハンダごてを使った部品の交換も任されるようになった。


 当時のテレビは真空管の破損などにより、見られなくなることが少なくなかった。販売店向けに用意された分厚いハンドブックを何度もめくり、修理の腕を上げた。


大切に使っている東芝のハンドブック


 20年前、そのハンドブックと思いがけず再会した。福岡市で骨董店を始める前、あいさつのため釜石市を訪れた際、すでに亡くなっていた店主の息子が保管していた。中学時代の大場さんの熱心な姿も覚えており、そのハンドブックを譲ってくれた。


 「ずっと残していてくれたなんて、本当にうれしかった。一生ものです」。このハンドブックがないと修理できないテレビも多いそうで、大場さんにとってかけがえのない”師匠"として、こちらもまだまだ現役で活躍している。


電車の吊り革越しに見る店内の様子


 「エクスキューズ ミー」。平日の午後、中国・香港で眼鏡店を営んでいるという男性(38)が大場さんの店にやって来た。「骨董」をキーワードにインターネットで調べて来店したそうで、眼鏡店に飾るレトロなインテリアを求めて、店内を1時間ほど見て回った。


レトロな品々の話に花が咲く


 「欲しい品物がたくさん。大きくて持ち帰れないのが残念」。それでも、かつて駄菓子を売っていた直径50センチはあるガラスのケース、壁掛けの大きな温度計、製薬会社のマスコット人形など4点、計3万円分ほどを購入し、満足そうに店を後にした。


「サンキュー」。香港から訪れた男性を見送る大場さん


 国際線の運航が再開されたこともあり、数か月前から韓国、ドイツ、中国など海外から訪れる客が目立つようになったという。



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じっくり至福の時間

 国内の客層も変化している。以前は40代、50代の男性客が中心だったが、最近は20代の若者、特に女性客が増えているそうだ。


レトロ感のあるガラスコップ。若い女性に人気だという


 「郷愁」を求めて訪れる男性客に対し、彼女たちが反応を示すのは「カワイイ」。「私の世代とはまた違う感覚で、新鮮に映るのでしょうね」と大場さん。「昔は、こういう具合に使っていたんですよ」と教えることもしばしばという。


「デザインが斬新」と美術を学ぶ若者が関心を示すマッチ箱


 美術系の学校に通う学生が「デザインが斬新で、参考になる」と、今ではほとんど見かけなくなった小さなマッチ箱を買い求めることもあるそうだ。


蓄音機やホーロー看板などが並ぶ


 テレビにはじまり、電気スタンド、アルミ製の弁当箱、学校の机、ホーロー看板、古銭、戦前戦後の雑誌……。レトロな品々が1万点ほどあるという店内で、ひときわ目につくのは大正時代に製造されたゼンマイ式の蓄音機だ。


蓄音機からレコードの大きな音が流れた


 レコード盤をセットして、聴かせてもらう。蓄音機本体がホーンになっており、レコード針がひろった音を響かせる。思った以上に重みのある低音がこだました。


古いレコードのジャケットが店内を華やかに


 1000枚ほどそろえているレコードも、この3、4年、人気が広まったという。「なぜでしょう。ジャケットが魅力的なのかな」。若い男性を中心に、一枚一枚じっくり選ぶ人が多いそうだ。


 雑誌や看板、弁当箱などに描かれた芸能人やキャラクター。時代を彩ったスターの顔ぶれを見るだけでも、わくわくする。店に入ってから、もう4時間が過ぎていた。


店内の品々に描かれている昭和の”スター”たち


 大場さんには今、夢中になっているものがある。それは、エンジニアとして勤めた東芝がかつて製造したテレビに新たな“命“を吹き込むことだ。


 中古品の市場で運よく見つけた希少品で、「博物館にしか置いていないようなもの」だという。内部をきれいに洗浄し、精密に引いた図面を基に、慎重に部品交換を進めているとのこと。「いじり始めてもう1年。ようやく7割ほど完成しました」


大場さんが書いた昭和30年代のテレビの回路図


 中学時代のように、寝食も忘れて打ち込むことはもうないが、とっておきの時間を自宅でじっくりと楽しんでいる。「毎日が日曜みたいなもの。俺は幸せだと思いますよ」。ファインダー越しに見るその瞳は、ラジオ少年のままだと感じた。


人なつっこい笑顔も大場さんの魅力


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