戦地から妻へ34通の手紙 読み解いた孫が知った祖父の家族愛
記事 INDEX
- 祖父の思いに初めて向き合う
- まだ見ぬ子への思いを切々と
- 「亡き父に伝えられたら……」
太平洋戦争末期、ビルマ(現ミャンマー)で戦死した兵士が故郷の妻に宛てた34通の手紙が、福岡県宗像市の孫の元に残されている。孫はこの春から半年かけて文面を読み解き、易しい言葉で書き起こした。そこには、会うことさえかなわなかった我が子を遠い戦地からいとおしむ、親心があふれていた。
祖父の思いに初めて向き合う
宗像市曲の公務員、土橋功昌(こうすけ)さん(53)。昨年10月に父朝行(ともゆき)さんが80歳で他界した後、仏壇の引き出しから、線香のにおいが染みついた古いつづりが出てきた。出征した祖父の甫(はじめ)さんが、妻キマさんに送った31枚のはがきと3通の封書が大切にとじてあった。
2014年にキマさんが102歳で亡くなった後、朝行さんから手紙が見つかったことは聞いていたが、関心を持たなかった。父の死をきっかけに、祖父の思いに初めて向き合った。
まだ見ぬ子への思いを切々と
甫さんは現在の佐賀県太良町出身で、活版印刷所を営んでいた。1929年に陸軍に徴集され、太平洋戦争開戦前の41年夏に応召。その時、キマさんには新たな命が宿っていた。
甫さんは、平壌やラングーン(現ヤンゴン)から手紙を送ってきた。
<男だったら朝行とはどうですか。女だったら君達で考えて呉れ>
その年の12月に誕生したのは男女の双子だった。姉は戦勝を願って「勝子」、弟は手紙の通り、「朝行」と名付けられた。
誕生を知らされた甫さんの喜びようも読み取れる。
<分娩をしてから初めての便りを頂き、しかも子どもの写真を拝見して、故山に帰ったような感が致しました。どうぞ宝子と思って養育を頼みます。今日は戦友と一杯、現地酒でも含んで祝いたい>
それからも、妻子を思う手紙が相次いで届いた。
<乳が出ないのに2人分の養育は骨が折れることでしょう>
<歩くのは春の頃でしょうね。歩くようになって2人の写真を見たい>
<朝行とよんでいますか。二人の顔を見たいですね>
<乳等充分ありますか。ボチボチはい廻る頃でしょう。僕が帰る頃は二人共歩いて駅まで出迎えてくれる等と思うと本当に親の情がこみ上げて来ます>
<君と僕と一人宛(ずつ)手を引いて無事の御礼詣りする日を楽しみにして待ってもらいたい>
「亡き父に伝えられたら……」
帰郷の願いはかなわず、甫さんは45年5月1日、ビルマ南部で戦死する。36歳だった。その11か月前を最後に、便りは途絶えていた。「戦闘が激しくなり、書けなくなったのでは」と土橋さんは推察する。
検閲で黒塗りされたり、万年筆の小さな文字がつぶれていたりして、読み解くのに半年かかった。臨床心理士の資格を持つ防衛技官として陸上自衛隊に勤務する傍ら、帰宅後の夜や休日に作業を進め、8月20日にようやくすべての書き起こしを終えた。
戦後、キマさんは女手一つで3人の子を育てた。生活に余裕はなく、中学を卒業した朝行さんは福岡に働きに出た。
土橋さんは「父は祖母が亡くなるまで手紙の存在を知らず、その後も読むことはなかったと思う。父親の愛情を知らず、寂しさや苦労を抱えながら育った父が生きているうちに手紙の内容を伝えられていたら、どれほど幸せに感じ、喜んでくれただろうか」と悔やむ。
土橋さんには高校生の一人娘がいる。命のつながりや子を思う心の深さを知ってほしいから、親元を巣立つ時か結婚する時、この戦地からの便りについて伝えたいという。