いたるところに河童がいる久留米市田主丸町 そのワケを聞いてきた

球磨川から移り住んだ河童の伝承

 田主丸で河童を主役にした地域おこしが行われている理由を確かめるため、久留米市田主丸総合支所を訪ねました。河童伝説の伝承などに取り組む有志の集まり「九千坊本山田主丸河童族」の菰田馨蔵さんと、支所の産業振興課で課長補佐を務める馬田勝利さんが、詳しく教えてくれました。


田主丸の河童について語る菰田さん

 河童の伝承は水との関わりが深く、日本各地にあります。菰田さんによると、氾濫などが起きないよう川を鎮めるため、江戸時代の頃から信仰されるようになりましたが、治水技術の発達に伴って信仰は薄れてきたといいます。田主丸を含む筑後川流域でも言い伝えが残っています。中央アジアから海を渡った河童が球磨川(熊本県)で暮らしていたものの、加藤清正の怒りを買って筑後川へ移り住んだ――というものだそうです。

火付け役は火野葦平


鯉を捕る様子が「生き河童」とも呼ばれた上村さん(「田主丸町合併50周年記念誌」より)


 伝説がまちおこしへと発展したのは、なぜでしょう。それは、芥川賞作家・火野葦平の訪問がきっかけだったといいます。葦平は田主丸で1940年代前半、「鯉とりまあしゃん」と呼ばれた上村政雄さんが鯉を捕る現場を目にしたそうです。河童を思わせるその技に驚いた葦平はそれ以来、田主丸をたびたび訪れ、河童伝承や人々について記録を残しました。葦平が発表する小説に河童や田主丸のことが登場すると地元は盛り上がり、「九千坊本山田主丸河童族」が1955年に発足し、その活動が広がったといいます。


「多くの人に足を運んでほしい」と話す馬田さん

 馬田さんによると、点在する河童の石像のほとんどは、この「九千坊本山田主丸河童族」が設置したものだそうです。「河童による田主丸のまちおこしは歴史があり、河童をモチーフにしたものが町のあちこちにあります。フルーツ狩りのあとは、河童を探して歩いてみるのも楽しいですよ」と馬田さんは話しています。


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