筑豊御三家・貝島家の百合野山荘を後世へ 保存活動に広がり

邸宅の玄関前に集まった一般公開の参加者

 炭鉱経営で栄えた「筑豊御三家」の一つ、貝島家が大正時代に現・福岡県宮若市に建てた邸宅「百合野山荘」の保存活動が広がりを見せている。活動の中心を担う「炭鉱遺産『貝島百合野山荘』市民の会」が所有者の了承を得て2018年から年1、2回実施している一般公開は今秋、過去最多の約170人を集めた。会員数は約1300人に達し、文化財指定を視野に入れた専門家の調査なども進んでいる。

<百合野山荘> 「貝島炭礦(たんこう)」創業者・貝島太助(1845~1916年)の次男で、太助の弟・六太郎家を継いだ同社2代目社長・栄四郎が1915年(大正4年)に完成させた。柳川藩主立花邸御花(福岡県柳川市)の洋館と大広間を手がけた博多の大工・讃井伝吉が総棟梁(とうりょう)を務めたとされる。戦後は企業の福祉施設などとして使われ、その時から「百合野山荘」の名称で呼ばれている。

大正ロマンが漂う邸宅

 「貝島は昭和の初め、資本金では日本で9番目の財閥でした」。11月18日、山荘の一般公開に集まった参加者たちに、元大手ゼネコン社員の中野二郎さん(73)が語りかけた。

 中野さんは18年の市民の会発足に先立ち、有志数人と「百合野山荘 調査・分析スタッフの会」を結成。1級土木施工管理技士の視点で、建物の構造や保存状態などをボランティアで調べている。郷土史家らから貝島家や筑豊炭田の歴史も学び、一般公開では説明役を買って出ている。


暖炉が設けられた洋室


 木造一部2階建ての山荘は東西に延びる造りで、床面積は約1505平方メートル。東側が接客空間、西側が生活空間として使われていたとされる。東側には座敷や茶室といった和室のほかに暖炉を設けた洋室があり、発売初期とされる国産の自動演奏ピアノがそのまま置かれている。参加者は大正ロマンの雰囲気が残る室内に、盛んにカメラを向けていた。


和室の特徴的な天井


 木々が紅葉した広大な庭園も、参加者の感嘆を誘っていた。同会によると、山荘の敷地は約9万平方メートルあり、炭鉱経営者の住宅では飯塚市の旧伊藤伝右衛門邸(国重要文化財)の約7570平方メートルと比べても規模が大きい。炭鉱事故の犠牲者を悼む慰霊碑のほか、敷地に隣接する池のほとりには船着き場も設けられている。


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「文化財」を視野に調査

 調査には大学教授ら学識者も加わっており、同会は調査報告書を県を通じて文化庁に提出する準備を進めている。建物は良質の部材が使われていて変形などが少なく、良好な状態が保たれているという。同庁にはボランティアの活動や山荘の歴史的背景なども訴え、将来の文化財指定に道を開きたい考えだ。


公開された庭園を散策する参加者たち


 市民の会は「『御三家』の一角を占めた貝島関連の遺構は、ほとんど現存していない」として、所有者の協力を得ながら保存活動への理解を広く呼びかけてきた。会長の原田正彦・元宮若商工会議所会頭(76)は「月1回の草刈りや、一般公開への参加者が少しずつ増えており、ものすごくうれしい」と手応えを語り、「いずれは山荘で竜王戦の対局を実現させたい」と夢を膨らませる。


炭鉱事故犠牲者の慰霊碑


 中野さんは福岡市出身で、「田舎暮らし」に憧れて宮若市に転居したのを機に保存活動を知った。山荘について「地域で掘られた石炭のお陰で建った。地域の方々共通の財産と考えていいと思う」と語り、保存への機運の盛り上がりに期待を寄せる。


坑内採掘終了から50年

 麻生、安川と並び筑豊御三家と呼ばれた貝島家が興した貝島炭礦が、旧宮田町(現宮若市)で坑内採掘を終了してから11月28日で50年となった。
 宮若市石炭記念館などによると、1973年11月28日、貝島系の「大之浦炭礦」が操業を停止。29日に従業員516人全員を解雇した。石炭から石油に主役が移った「エネルギー革命」で閉山が相次いでいた筑豊炭田では、大之浦鉱の閉山で坑内採掘が全て終了した。
 この3年後の76年、貝島本社が同町で手がけていた露天掘りが終了し、筑豊から「ヤマの灯」が消えた。


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