「博多大仏」を知ってますか?福岡市東区の称名寺に残る台座
記事 INDEX
- 戦時下の金属供出命令で
- 大仏の一部は今も大切に
- 写真が伝える喜びと無念
かつて博多に、奈良、鎌倉に次ぐとされる第三の大仏があったことをご存知だろうか。その「博多大仏」があったのは、福岡市東区馬出の称名寺。一遍上人を開祖とする時宗の寺で、1300年頃に創建された。現在は、広い境内の中央に高さ6メートルほどの石造りの台座だけがポツンと残っている。
戦時下の金属供出命令で
もし今も、この地に大仏があったなら、福岡タワーや福岡PayPayドームなどと並び、福岡の観光ガイドで紹介されていたに違いない。なぜ、いつ、なくなったのだろうか、住職の妻・河野貴和子さん(76)に話を聞いた。
高さ約5.5メートル、重さ約16トンの博多大仏が生まれたのは、1889年(明治22年)に神戸市の能福寺から大仏の頭部を譲り受けたのがきっかけ。「胴体も造ろう」と、称名寺だけでなく地域で盛り上がったそうだ。
寺では、大仏を完成させる資材として銅や鉄の寄進を呼びかけた。集まったものの中には、女性たちが使っていた青銅製の手鏡なども含まれ、その数は4500あまりにのぼったという。
1912年(明治45年)に大仏が安置された称名寺は、道路拡張に伴って1920年(大正9年)、現在の博多区下川端町付近から東区馬出へ。大仏も移されたが、博多の中心地で誕生した経緯から「博多大仏」の愛称で親しまれた。
台座などを含む大仏の高さは約11.5メートル。箱崎地区では、松林の先に大仏の顔が見え、道行く人が遠くからも拝んでいたそうだ。その大仏も戦時下の金属供出命令で、1944年(昭和19年)に姿を消した。今では寺の近隣でも、かつて存在した大仏のことを知らない人も少なくないという。
大仏の一部は今も大切に
境内の中央に残る台座の内部を見せてもらった。中はドーム状で、大人7、8人が入れる広さだ。鼓を打ち、横笛を吹き、また蓮の花を手にする天女が漆喰(しっくい)で描かれている。
近隣などから大仏再建を望む声が上がったこともあるが、1世紀あまりを経て台座の劣化も進んだ。石積みの一部が崩れるなどしており、めどは立っていない。
「実は大仏の一部が残っているのです」。河野さんが見せてくれたのは、大仏の額にあった巻き髪「白毫(びゃくごう)」だった。手に持つと、ずしりと想像以上の重さを感じ、思いを込めて丁寧に手がけられたことが伝わってきた。
かつて地域で愛されていたという博多大仏は確かに存在した――。当時を雄弁に語る写真を見せてもらったことで、揺るぎない事実として受け止めることができた。
たとえば、神戸市から到着した頭部と一緒に記念写真に納まる住職らの姿。その表情はどこか誇らしげに見える。
アルバムをめくると、階段に並ぶ人たちと後方に鎮座する大仏の写真があった。僧侶のほかに、軍服の男性や晴れ着の子どもの姿もある。裏の日付を確かめると「昭和十九年七月十六日」。供出の直前、大仏の閉眼供養の際に撮られたものだった。
写真が伝える喜びと無念
出征者が見送られる時に身に着けた「たすき」を意識したのだろうか、「大仏には赤いたすきが掛けられたようです」と河野さん。風が吹くと破れてしまいそうな、80年ほど前の赤いたすきが、往時を語る“遺物”として大切に寺に保存されている。
大仏に限らず、本堂の香炉やろうそく台、大仏の周辺を囲んでいた鎖も含め、銅や鉄などの金属はほとんどが接収された。
国の決定に何も言えなかった時代。「先代たちの苦労を知っていただけに、さぞかし無念だったでしょう」と河野さんは話す。義父にあたる当時の住職は、悲しみをこらえ、黙ってひれ伏していたという。義母はのちに「あと1年で終戦だったのに。涙が止まらなかった」と悔やんでいたそうだ。
閉眼供養の写真をよく見ると、並んだ一人ひとりが硬く厳しい表情をしている。その”沈黙”が戦争に対する複雑な思い、大仏を失う無念さを伝えているように思えた。
「写真は、現に見ているものが確実に存在したことを保証してくれるものである」――。フランスの思想家ロラン・バルトが記した一節が、改めて胸に重く響いた。