明治末期に”幻の関門橋構想” 動いたのは新1万円札の渋沢栄一
7月3日発行の新1万円札の顔となる実業家・渋沢栄一(1840~1931年)は、実際に関門橋が架かる60年以上前の明治末期、現在の北九州市門司区と山口県下関市を鉄道でつなぐ、”幻の関門橋構想”を描いていた。国の反対で頓挫したが、橋の上に広軌道の電車を走らせる画期的なものだった。
「関門架橋株式会社」を計画
渋沢は生涯で約500の企業の設立や支援に携わり、「日本資本主義の父」と呼ばれる。渋沢栄一記念財団(東京)の資料によると、渋沢は1911年(明治44年)8月、関西の私鉄設立に関わった銀行家の岩下清周(きよちか)、海外の鉄道橋建設や国内の鉄道事業に携わった土木技術者・渡辺嘉一らと「関門架橋株式会社」の設立を国に出願した。
海の難所・関門海峡に橋を架け、山陽鉄道と九州鉄道を約10キロの鉄道で接続し、電気軌道を敷設する壮大な事業だった。橋の全長は3890フィート(約1.2キロ)、レールは現在の新幹線に該当する「広軌」とし、資本金1500万円(現在の約215億円)、1日乗客6000人など、具体的な計画を打ち出した。
「公益」を重んじる経済思想
しかし、渋沢らの出願は、陸軍、海軍、内務の各省、鉄道院の詮議の結果、「不許可」となった。背景には、民間に主導権を握られまいとする国の意向が透けて見える。同年8、9月の陸軍省の公文書には「内閣総理大臣へ照会案」と記された記録が残る。そこで陸軍は関門橋の整備について「決シテ之(これ)ヲ民間企業ニ委(まか)スヘカラサル…」と訴え、政府が早急に建設に着手し、歩道を設けて軍事利用できるよう求めている。
鉄道院はこの年、広井勇・東京帝国大教授に架橋に関する調査を依頼。16年に全長2980フィートの鉄橋をかけ、電車線路を複線で設ける案が報告された。結果的に国は、並行して検討していた「関門鉄道トンネル」(42年開通)建設案を採用し、広井案も実現しなかった。高速道路が走る関門橋が架かるのは、半世紀以上過ぎた73年(昭和48年)のことだ。
老川慶喜・立教大名誉教授(日本経済史)は「関門が鉄道で結ばれると、九州から青森までつながることから、大きな公益につながると渋沢らは考えたのだろう。実現せずとも、その重要性を社会に知らしめた点で意義があった」と指摘。「渋沢の公益重視の経済思想は、自由な競争を重視してひずみが生じた現代の日本経済に多くの示唆を与えるのではないか」と話す。