天神・新天町の食堂に岡本太郎の『挑む』がある本当のわけとは

記事 INDEX

  • きっかけは「芸術は爆発だ」
  • 商店街の危機感が成功を呼ぶ
  • 岡本太郎は即興で描いたのか?

 『太陽の塔』や『明日の神話』などで知られる芸術家・岡本太郎(1911~1996年)。彼の『挑む』と題された作品が、福岡市・天神の商店街「新天町」にある食堂に飾られています。なぜ、こんなところに!理由を知りたくて商店街関係者へ取材を進めると、作品がたどった紆余曲折が分かってきました。


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きっかけは「芸術は爆発だ」

 新天町に『挑む』がやってきたきっかけは、1981年10月24~26日に開かれた「新天町35周年創業祭 新天まつり」でした。岡本太郎はイベントのゲストとして招かれ、トークショーとサイン会に出席しました。当時、新天町商店街商業協同組合の宣伝部で岡本太郎を招待する交渉を担当した柴田嘉和さんが思い出を語ってくれました。


柴田さんは明治39年創業の老舗「しばた洋傘店」の社長


 「その時の宣伝部長だったと思います。新天まつりが10月で、秋といえば『芸術』だろうと言い始めました。まぁ単純なんですけど、『芸術は爆発だ』の岡本太郎を招こうとなったわけです」

 柴田さんはそう言って笑いますが、ちょうどその年、岡本太郎の名ゼリフ「芸術は爆発だ」がテレビCMで大流行。柴田さんたちはお茶の間の人気者を招こうとし、なんと実現させてしまったのです。

商店街の危機感が成功を呼ぶ

 「岡本太郎を呼ぶ」。新天町の人たちを駆り立てたのは危機感だったといいます。当時の福岡市では、郊外に相次いで開業した大型店に客が流れ、新天町の関係者たちは"地盤沈下"に危機感を強めていました。


新天町は今年、創業74周年

 柴田さんたちは岡本太郎の自宅に何度も通い、彼が得意とした即興で絵を描くイベントの企画書を見せて粘り強く出演を交渉しました。岡本太郎も熱意に押されて出演を承諾。1981年10月25日、岡本太郎が新天町にやってきます。

 岡本太郎はトークショーとサイン会に出席し、子どもたちの質問にも応じました。柴田さんはというと、会場の時計塔前で岡本太郎グッズを売っていたそうで、イベントはほとんど見ていません。そして、ここから『挑む』の謎が深まっていくのです。


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岡本太郎は即興で描いたのか?

 新天町の公式サイトには、当時の様子が紹介されています。それによると「岡本太郎画伯を招いてメルヘン広場で現代美術についてトークをしていただきました。その後、縦0.9メートル幅 1.8メートルの大きなキャンバスに赤、青、黄の鮮やかな筆を走らせ『挑む』という豪快な文字を即興で描かれ(後略)」と、岡本太郎がその場で絵を仕上げたとする記述があります。しかし、柴田さんは首をかしげます。「岡本さんは『風邪をひいた』とか言って渋ったんですよ。絵を描いた記憶はありません」

 岡本太郎はその日、即興で絵を描いたのか、描かなかったのか。実は、新天町商店街商業協同組合には当時の写真すら残っていないそうです。「調べてみてよ」。柴田さんにそう言われ、取材を進めることにしました。


絵の隣にある『挑む』の解説文


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当時の新聞に答えを発見

 岡本太郎が新天まつりに出演した翌日の読売新聞、西日本新聞、朝日新聞、毎日新聞を調べました。そして、福岡市総合図書館に保管されていた西日本新聞と朝日新聞の地域面に、まつりの記載を見つけました。事実はどうだったのでしょう。


当時の読売新聞は読売新聞西部本社の資料室で調べた

 両紙によると、柴田さんが記憶していたように、まつり当日はトークショーとサイン会だけで、即興で絵を描いた記載は見当たりません。イベントは岡本太郎が事前に描いてきた『挑む』を飾った会場で開かれました。朝日新聞の紙面には、岡本太郎の秘書でパートナーだった岡本(当時・平野)敏子の言葉が残されています。

「小品を描いては破り、描いては破りしながらイメージを決め、四、五日前にやっと完成させたほど力を入れていた」(1981年10月26日付の朝日新聞朝刊より抜粋)

 西日本新聞にはサインに応じる岡本太郎の写真とともに、会場の雰囲気が記録されています。会場の子どもたちの質問に岡本太郎が困っています。

『ピカソの絵は私にはわからないんですが、どこがいいんですか』という小学生の質問も飛び出し、さすがの岡本氏も一瞬返事に窮する場面も。(1981年10月26日付の西日本新聞朝刊より抜粋)

 新天町の複数の関係者によると、新天まつりから何日かたってから、会場に飾った作品よりも大きな『挑む』が、岡本太郎から贈られてきました。何枚もの模造紙を貼り合わせた横幅約4メートルの作品で、これが新天町の食堂に今も飾られている『挑む』です。

 しかし、これも「大きすぎて飾るところがない」(柴田さん)と、商店街の倉庫に保管され、そのまま忘れ去られていました。 1988年に新天町プラザが完成し、商店街で働く人の食堂ができることになり、幻の名画はようやく日の目を見ることに。新天町の『挑む』にはそんな紆余曲折があったのです。

 1981年のあの日、商店街を歩く岡本を新天町のレコード店で見かけたという「ギャラリー風」の武田義明代表は振り返ります。「岡本さんはイベントが終わって商店街の役員たちと豪快にお酒を飲んで楽しんだと聞いています。後日、作品を贈ったのは、新天町の人たちと意気投合した証しではないでしょうか」


食堂への搬入は奥の窓からクレーンでつるして行ったという


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岡本太郎の専門家に聞いた

 昭和の出来事とはいえ、こんな豪快な話はあり得るのでしょうか。そこで、神奈川県の川崎市岡本太郎美術館に聞きました。美術館には新天町の『挑む』とうり二つの作品があります。

 学芸員の大杉浩司さんによると、「挑む」は岡本太郎が好んで描いたモチーフでした。美術館の『挑む』は、東京・新宿のイベントで即興で描いた作品です。大杉さんは続けます。「仮病ですか? あり得ますね。気分が乗らなかったのでしょう。逆に気分が乗ればダメだと言っても描く人でしたから。酒席が盛り上がったということでしたら、商店街の人たちによほど好感を持ったのでしょう」

 模造紙に描かれた新天町の作品は「下描き」なのでしょうか。しかし、大杉さんはその見方を完全に否定します。

 「岡本は『オリジナル主義』を嫌い、一つのモチーフを繰り返し作品に残しました。希少さより、多くの人が親しめる大衆性を重視したのです。本物や下描きなどという区別はなく、どれも本物なのです」


日常の風景に溶け込む岡本太郎の『挑む』

 岡本太郎は多くの人が気軽に芸術に親しめる環境を重視していたそうです。彼の作品が公共空間に多いことも、そういった理由からです。

 新天町の食堂では、今日も多くの人が『挑む』の前でランチを楽しんでいます。岡本太郎が、日常の中に息づく光景がありました。


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