悪さをする大鯰が退治されて… 筑紫野市の住宅街にある「鯰石」

静かな住宅街に鎮座する鯰石
記事 INDEX
- 菅原道真公が太刀で
- 四つ目の石も文献に
- 「雨乞いの石」の顔も
福岡県筑紫野市二日市の閑静な住宅街に、どっしりと大きな三つの石が鎮座している。「鯰(なまず)石」と呼ばれるその巨石。調べてみると、菅原道真公にまつわる伝説があり、約3キロ離れた太宰府天満宮との関係を指摘する論文もあるらしい。
菅原道真公が太刀で
その昔、葦(あし)が茂る沼だったというこの地には、巨大な鯰がいたという。ある日、道真公が沼の近くを通りかかると、鯰が立ちはだかって悪さを働いた。この鯰は行き交う人をたびたび困らせるため、住民らは難儀していたという。
道真公は太刀を抜き、大鯰めがけて「えい」「えい」と二振り。すると頭、胴体、尾の三つに分かれて飛び散り、三つの岩に姿を変えた――。そんな伝説が地域に残る。現地を訪ねると、住宅街らしからぬ武骨な印象の巨石が静かにたたずんでいた。
明治期に編さんされた福岡県地理全誌には、頭部にあたる最も大きな石で広さ2坪(約6.6平方メートル)あまり、と記されている。頭部と胴体の石は市の所有となり、胴体と尾は柵で守られるように保存されている。
頭部とされる石は、その"巨体"を隠すかのように竹林に潜んでいる。巨石に行く手を阻まれた竹が、身をよじらせるように地表に出て、天を目指して伸びていた。
竹林で閉口したのは、ものすごい数の蚊に襲われたことだ。まるで、石に近づこうとする"不審者"を撃退しようとしているかのようだった。
四つ目の石も文献に
鯰石のそばに5年ほど前に引っ越してきたという女性によると、周囲には古い民家が多かったが、次々と新しい住宅に建て替えられたそうだ。
地域のお年寄りの中には、毎日のように鯰石に向かってお祈りする人もいるとのこと。「触れるとご利益があるようですよ」と教えてくれた。
筑紫野市歴史博物館によると、鯰石の伝説は二日市庄屋覚書(1714年)や筑前国続風土記拾遣、福岡県地理全誌など江戸時代中期から明治にかけて記された複数の文献に登場するという。
最も古いとされる二日市庄屋覚書には、鯰石は三つではなく四つあったと記録されている。文献では、切断されたもう一つの胴体が光を放って北の方へ飛んでいき、野山の外れに落ちて石になったと記されているようだ。
この四つ目の石については、太宰府市公文書館紀要に、太宰府天満宮の「一の鳥居」に使われたのではないか、という論文が掲載されている。鳥居の土台となる石の大きさに加え、石質も同じ花こう岩という共通点があるからだ。運搬の方法やルートについても、裏付けとなるようなヒントが過去の文献に見られるという。
「雨乞いの石」の顔も
ちなみに鯰石は「雨乞いの石」という一面も持っている。とくに1934年には、当時の筑紫郡の約7割の水田で田植えができなくなる大干ばつに見舞われた。このとき、鯰石に祭壇をたてて、雨乞いの儀式が行われたことが1978年の「広報だざいふ」に記載されている。
石を水で洗って酒で清め、二夜三日、雨乞いをしたそうだ。すると満願の7月7日、「坂を下りるのも危ないほど」の大地を潤す雨に恵まれたという。
すぐそばの太宰府市では2024年、猛暑日が40日も続き、連続記録の国内最長を更新した。今年も酷暑と少雨が続き、水不足による農作物への影響が心配された。
8月10日前後に各地を豪雨が襲い、その後はまた厳しい暑さが戻ってきた。地域のお年寄りたちにならい、この夏が平穏に過ぎていくことを願いながら、鯰石に両手を添えた。