ガンダムベース福岡 ガンプラ川口名人が地元福岡で語ったプラモ愛


記事 INDEX

  • 北九州は川口名人の原点。
  • ガンダムは見逃せない。
  • 趣味を仕事はしんどいけれど。

 ガンダムシリーズに登場するモビルスーツなどをプラモデルにした「ガンプラ」。アニメ『機動戦士ガンダム』(1979~1980年)の放送後に販売が始まり、全国に一大ブームを巻き起こしました。そのガンプラ文化を黎明期から支えてきたのが、北九州市出身で、ガンプラを販売するバンダイスピリッツ(東京)の社員である"川口名人"こと川口克己さんです。キャナルシティ博多(福岡市博多区)に11月30日にオープンした国内2か所目のガンプラ旗艦店「ガンダムベース福岡」で、名人にガンプラと歩んだこれまでやガンプラ愛を聞きました。

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川口克己さん

1961年、北九州市門司区出身。ガンプラ販売より早く、モビルスーツのプラモデルを自作。ガンプラ発売後は漫画雑誌「コミックボンボン」(講談社)に連載された『プラモ狂四郎』『超戦士ガンダム野郎』などにも登場し、「川口名人」の愛称で親しまれた。大学卒業後はバンダイ入社。現在はバンダイスピリッツのホビー事業部ダイレクト販売チームシニアアドバイザー。


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福岡・北九州が川口少年を育てた

――コミックボンボン読んでいました。まさか北九州出身だったとは。

 そうなんです。小学4年生のときに父親の仕事で東京に引っ越したんですけどね。出身は北九州市・門司です。少し高いところに自宅があったので、関門海峡の向こう側の山口・下関まで見えていました。

――プラモデルとの出会いも北九州の頃ですか。

 ですね。当時、学校の周りには文房具店がけっこうありました。文具だけでなく、おもちゃや駄菓子も売っている「子どものよろず屋」みたいなところで、プラモデルも並んでいて、学校帰りには立ち寄ってましたね。小学2、3年ぐらいからはプラモデルを作ってました。

――どんなプラモデルを作っていたのですか。

 僕が買っていたのはテレビアニメのキャラクターものですね。「のらくろ」とか、昭和アニメのプラモデルです。


――プラモデルのイメージは戦闘機や戦車、戦艦といったミリタリーものですよね。

 とっかかりはキャラものでしたが、だんだんとミリタリーものとか、実物を忠実に再現した「スケールモデル」を作るようになりました。小学校の図書館には戦記物の本もあって、ずっと読んでましたね。僕は昭和36年(1961年)生まれで、終戦から16年しかたっていないわけです。戦地に行った人たちは近所にもいました。ですから、戦争を体験していない世代ですが、戦後の空気感というのはわりと感じていました。ミリタリーものは感覚的にも身近でしたね。


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――当時の北九州で印象に残っていることはありますか。

 当時の門司はインフラが整ってなくて、夏になると断水して給水車が来てました(笑)。お休みの日には父親が「今日は街に出て飯食うぞ」と言って、小倉の井筒屋とかに行ってましたね。

 自然の中で走り回っていた印象が強く、やんちゃなこともやってました。秘密基地もつくりましたよ。釣りも、昆虫採集もできました。東京に引っ越してからはそういう環境はなかったので、贅沢な子ども時代だったなと思いますよね。

――以前、漫画家の松本零士先生にインタビューしたとき、自然の中で遊んだ経験によってイマジネーションが育まれたとおっしゃってました。

 結果的にはよかったと思います。自宅から見える関門海峡や山の絵を描いてました。景色が豊かだったし、絵を描くことが好きになって、大人にほめられて調子に乗ってひたすら描いていました。後年になって「川口は立体の構図の取り方がうまい」と言われたこともあり、今の基礎はその頃につくられたと思いますね。

――松本先生は北九州・小倉出身です。『宇宙戦艦ヤマト』のプラモデルとかは?

 作りましたよ。ヤマトのテレビ放送は中学生の頃でした。『戦場まんがシリーズ』など戦記物の漫画も読んで、プラモデルを漫画と同じ色に塗ってみたりもしました。

ファーストガンダムは一度も見逃してません

――『機動戦士ガンダム』の放送は高校生の頃ですね。川口少年の印象はどうでしたか?


 第1話を見て「従来の巨大ロボットものとはちょっと違うぞ」というのが第一印象。子ども向けというより、『宇宙戦艦ヤマト』『スター・ウォーズ』みたいな、硬派な物語になりそうだという印象でした。ザクが宇宙空間をスペースコロニーに向かって飛んでいくシーンから始まりますよね。その時はまだザクの大きさが分かりませんから。コロニーに入って初めてザクが木よりもでかいことが分かるんです。そこでSF色が強い作品なんだなと分かります。その後、量産機が出てきて、いわゆる『マジンガーZ』のような巨大ロボットアニメではなく、戦記物のロボットアニメなんだなと分かってすぐにのめり込みました。


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――当時は録画機器はまだ普及していませんでしたよね。

 ないですね。

――見逃したら?

 見られない(笑)。絶対にテレビの前にいないといけない。大変ですけど、それだけガンダムにはインパクトがありました。自分の中で見逃すわけにはいかん、と。当時は再放送を頻繁にしていたので見るチャンスは今よりもありましたが、とにかくリアルタイムで見続ける習慣を意識的につけていました。見逃しはなかったと思いますよ、はい。

――ガンダムが川口少年に与えた影響は大きかった。

 ですね。放送回を追うごとに人間関係が複雑になるし、小さな子どもには分かりにくいだろうなとは思いましたが。ガンダムに出てくるモビルスーツを立体物として作りたいけど、放送当時はガンダムのプラモデルはありませんでした。自分で作るしかないので、アニメを見ているときから作る気持ちにはなっていました。


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シャアザクを完全手作り

――最初はシャア専用ザクを手作りしたそうですが、どうやって。

 当時の材料は、プラスチック板と接着剤とパテくらいしかありませんでした。市販されている厚さ1ミリくらいのプラ板をミルフィーユ状に重ねてブロックを作ります。それを、自分で描いた図面をもとに削り出します。まぁ、アナログですよ。一つずつパーツを作って、組み立てて色を塗って完成です。

――発表の場は?

 笹塚(東京都渋谷区)にあった模型店によく出入りしていて、僕はそこに集まるプラモデル好きのサークルに入っていました。店には模型雑誌のライターも来ていました。そしたら「月刊ホビージャパン」のライターから、「スター・ウォーズのプラモデル特集と一緒に、ガンダムも取り上げたい」と声がかかりました。ガンダムのプラモデルはまだ存在しません。僕を含めた4人が手をあげました。そのサークルが「ストリームベース」です。

――後年、ストリームベースは漫画『プラモ狂四郎』にも取り上げられ有名になります。入るきっかけは?

 高校の同級生にプラモデルが好きなやつがいて、その友人に誘われました。当時、都心西部では、笹塚や下北沢、恵比寿に模型好きが集まる店がありました。どの店にもよく出入りして、模型好きの仲間も増えていきましたね。

――雑誌に載ると反響も大きかったのでは。

 雑誌デビューしてからまもなくガンプラが発売されるのですが、ガンプラが出ると雑誌の編集部から「レビューしてちょうだい」って。そこで編集部に出入りする機会が増えて、大学の4年間は大学と編集部を行ったり来たりしていました。納品に行くと「川口君、次はこれどう?」って、作品例の制作を連続してもらいました。そのうちバンダイから展示用の試作オファーも来るようになりました。

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