ガンダムベース福岡 ガンプラ川口名人が地元福岡で語ったプラモ愛
誌面デビューから「名人」へ
――コミックボンボンの漫画『プラモ狂四郎』に出たのもその頃ですよね。
ボンボンでは毎月、グラビア用のプラモデルを納品していました。ガンプラのグラビアは1日で撮り終わります。『プラモ狂四郎』の関係者もいて、撮影中は企画会議にもなっていた。狂四郎のアイデアも出し合って、「じゃあ、川口君たちも出演させたら」と、講談社の撮影室で物事が決まっていきました。だから、納期に遅れようものなら大変で、僕はコンスタントに納品できていたから、立場を維持して今につなげてこれたと思いますね。
――どうして「名人」と言われるようになったのですか。
ボンボンで連載していた漫画『超戦士ガンダム野郎』(1989年1月号~1993年11月号)に、「名人」として出演したのが初めてですね。その後は1995年、ガンプラ15周年の企画としてガンプラのマスターグレードを発売しました。ホビージャパンで発売の半年前から毎号企画を掲載してもらいました。当時の編集長が誌面上で「名人」をつけて、それで完全に定着しましたね。
最近ではお客様とSNSで交流する機会が増え、イベントに出演することも増えました。30、40歳代のお客様から「狂四郎の頃から見てました」という声も多く、漫画で僕を認識してくれてる方は多いです。ありがたいですよね。
――趣味が仕事になってるのも幸せですね。
趣味を仕事にすると不幸になるとよく言われますよね。確かにしんどい部分はあります。好きな事を仕事にしちゃうと、どこかで折り合いをつける必要が生じてきます。「俺はこういうものを作りたいんだ」。でも、コストや技術とかでそれは無理、というのが出てきます。それに組織の中で仕事をするので、一人で全てはできません。いろんな人たちが関わりながらできあがっていくので、自分が理想とする商品はほぼほぼできません。理想から少しずつスペックダウンしながら商品として可能なことをまとめることになる。そのギャップというのは、好きな分だけつらい。世間に出したとき、お客様の評価で、「川口がやっているのはこのレベルなの?」とか言われちゃうから。正直、しんどい(笑)。
でも、肉体的にも精神的にもしんどいけど、好きだから頑張れる。近年は開発よりも、広告宣伝に仕事がシフトしているので、お客様と接する機会も増えました。僕を知ってくれている人たちと接する機会も増えて、幸せですね。
ガンプラは地元・福岡から世界へ
――ガンダムは放送開始から40周年。ガンプラも市民権を得ています。親子2世代、場合によっては3世代のファンもいるでしょう。
ガンプラが出始めた頃、プラモデルの本流はミリタリーなどのスケールモデルで、ガンプラは傍流でしかなかった。世の中はそういう認識でしたし、僕ら自身もそう思っていました。国産プラモデルが初めて発売されたのは1958年。ガンプラも国産プラモの歴史からすると、その半分以上は存在していることになります。一つのジャンルとして確立できた。僕らが作り始めた頃はこれほど続くとは思っていなかったですけどね。それが今では、国内だけでなく、世界でも親しまれるようになった。「ガンプラここまで来たな」と、子どもを見守るような感覚ですね。
そして、僕らと同世代のお父さんたちが、子どもと一緒に楽しんでくれている。そういった商材に関われて貴重な経験をさせてもらっている。プラモデルを作ることは今でも趣味ですし、利き手の右手が動いているうちはやめません。それくらい、プラモデルは人生そのもの。会社には若い子たちが入社してきて、企画開発も若い世代がしてくれている。彼らのつくり出す新たなガンプラの感覚を、僕ら"オールドタイプ"は楽しませてもらっています。
――ふるさとの福岡に国内2店舗目となる「ガンダムベース福岡」がオープンしました。
最初、福岡と聞いたときに驚きました。福岡はアジアからの観光客が増え、ガンダムベース福岡のある「キャナルシティ博多」にも海外のお客様が多い。僕も海外のイベントに出席する機会が多いので、地元の2号店をPRできることは嬉しいです。福岡出身のアーティストが多いように、プラモデルのモデラーにも福岡出身者はわりと多いです。福岡ってクリエイティブな文化が育ちやすいのか、芸術・文化面で脚光を浴びる人が多いですよね。その末席に僕も加われるのであれば嬉しいなぁ。
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